孤独の体験談

会社でも家庭でも孤立して、酒とゲームにのめり込んだ。

H(男性)

マージャンが家族団らん

「お父さんみたいになったらいかん」
「ダメな父親」
飲んでいた頃、よく元妻が子どもたちにそう言っていました。毎日休みなく働いた金で飲んで、どこが悪い。酔いつぶれていても、俺は一家の主だ。そう思おうとしても、抗えない劣等感があって、ますます酒をあおり、いろいろなものを失っていきました。

酒を飲み始めた頃は、アルコールがこんなにも害を及ぼすものだと思ってもみませんでした。初めて飲んだのがいつだったのか、覚えていません。物心ついたときには、飲みながら麻雀をする母の膝に座っていたので、そんなときに舐めたことがあったかもしれません。父は正月でもおちょこ一杯の酒で十分という人でしたが、母はお客さんが来るたびにやかんで日本酒をわかし、コップ酒で飲むくらい、酒に強い人でした。

両親共にマージャン好きで、家ではよくマージャンが繰り広げられていました。大人が中心の生活で、いつも心のどこかに淋しさがあったように思います。私は小学校から中学まで学区外の国立校に行ったため、近所に遊び友だちがいません。子どもらしい遊びもしたことがない、まじめな優等生でした。高校生になると、私も大人の仲間入りをして麻雀に参加するようになり、いわばそれが私にとって初めての家族団らんでした。その頃、面白半分でビールを飲んだことがあります。気持ち悪くて吐いたことを覚えています。

仕事でのまさかのつまずき

21歳のとき高校時代の同級生と結婚し、子どももできました。飲むようになったのは、社会人になってからです。当初は晩酌もしていなかったのですが、単身赴任の時期があり、仕事のお客さんと飲む機会が増え、得意先の人や同級生たちを月に1~2回家に呼んで麻雀をするようになって、飲むのが習慣になっていきました。同級生の中ではいちばんいい企業に就職したはずだったのに、会社が倒産したのは27歳のときです。それから少しずつ、歯車が狂っていきました。

地元の測量設計会社に再就職してからは、接待が多く飲む機会が増えました。麻雀好きの社長とは、よく一緒に勝負もしました。仕事とは違う雰囲気の中で、話しながら飲んだり打ったりすると、仲間意識みたいなものを感じました。人付き合いが苦手な自分にとって、麻雀や酒はコミュニケーションの道具でもあったのだと感じます。そんな頃、同業者に友人ができて、3人で測量の会社を起業しました。
 私には経理と営業の知識しかなかったので、覚えることが多くて大変でした。技術のある2人は毎日現場に出てしまうので、残された私は補佐に追われたのです。図面を作るため後日現場まで標識の写真を撮りに行って現像したり、現場に生えている植物の名前を図鑑で調べたり、徹夜で資料を作ったこともしばしばでした。不公平感が募り、その憂さを酒で晴らすことを覚えました。結局1年で辞め、次は同級生の税理士の紹介で経理の仕事に就きました。

ところが深夜まで残業があったうえ、社長の親族を優遇する社内の体制にうんざりしました。残業規定を作るなど、自分にできることをして社員を守ろうとしましたが、形ばかりのもので守れなかったばかりか、2年後に突然、現場に回されてしまったのです。減給されたうえ、慣れない現場仕事に疲弊しました。晩酌を始めたのは、その頃です。30代半ばでした。

家族とどう関わったらいいかわからない

気づけば2人の子どもたちは10代になっていて、家での私の存在は稀薄なものになっていました。私は無口なうえ、家族とほとんど関わってこなかったから、当然と言えば当然なのかもしれません。妻は家族を大切にする家庭で育ったので、よく家族旅行に行きたがっていました。一度も実現しなかったどころか、私は休日に子どもたちと遊んだ記憶もありません。妻は明るく行動的で、頭もよい人ですが、怒ると何日も話しません。以前は「子どもたちと遊んで」「家庭的なことをして」と言っていましたが、その頃には会話もなくなっている状態でした。

私が妻に内緒で人に頼まれ借金の保証人になったことも、夫婦仲の亀裂になりました。公正証書が家に届き、妻の知るところとなったのです。妻は公証人役場に勤めており、借金にも詳しいので、「なぜ保証人なんかになったのか」と私を責めました。他のことに関してもですが、妻の言い分はいつも正しくもっともで、私は「その通りだ」と思いながらもそれができないのです。

自分のふがいなさは、仕事でも感じるようになっていました。無遅刻無欠勤で何年がんばっても、現場仕事に慣れず、納期や精度に問題が出ることが増えていました。手順を教えてもらっても、その通りには進まなかったり、心がけて作業しても、できなかったり。顧客からクレームが発生し、上司にどういうことだと問い詰められると、つい「覚えていません」という言葉が口に出てしまい、ますます怒られる。失敗をするのが怖くて、できることでも「できません」と予防線を張ってしまう。それをやめようとすると、今度は言い訳がましくなったり、「はい」と言ってやらずじまいになったりして「やる気のない奴」ととられてしまう。

一緒に遊んできた麻雀仲間は、みなそれなりの地位と稼ぎがあるのに、自分はどうなんだと考えると情けなくなりました。家は100坪の実家の離れで住宅ローンもなかったのですが、妻に「もうちょっと稼いでほしい」と言われると、劣等感を通り越して無力感を感じました。そうした孤独を忘れさせてくれたのが、酒とゲームでした。子どものために買ったテレビゲームに私が夢中になってしまったのです。

「あなたはアルコール依存症です」

ゲームにはまったのは、段階をクリアして次の局面に進んだり、アイテムを獲得したりすることで、現実の世界では味わえない“達成感”や“承認”を得られたからです。

仕事から帰宅すると、夕飯を食べて飲みながらテレビゲームに没頭する毎日が続きました。妻と子どもたちが「お父さんみたいになるな」という目で自分を見ていることが、ひしひしと感じられました。現実を忘れるために、テレビゲームに集中し、酒をあおりました。500mlの缶チューハイを1本飲んで、焼酎のロックを5、6杯飲むと頭もぼやけます。テレビの画面が上下するくらい酔って、布団に入ります。ベッドの中にも焼酎を持ち込み、目覚めるとまず飲むのです。

失禁するたび妻に「酒を控えて」と怒られ、その通りだと思うのにできない自分が情けなかったです。職場に行っても酒が抜けておらず、「酒臭い」「何時まで飲んでんだ」と言われるようになりました。遅刻や欠勤をするようになって、首の皮が一枚でつながっている状態が続き、ついに解雇を言い渡されたのが54歳のときです。

実は解雇は私にとって、さほどショックなことではありませんでした。職場で文句を言われることに疲れ果てていたし、この仕事は自分にはもう無理だと思っていたからです。介護の仕事に転職しようかと考えたことが何度もありました。

妻に「クビになった」と伝えたとき、私から離婚を切り出しました。妻子からはほとんど無視されていたし、家庭の中に居場所はない。子どもたちは自立していたし、もう身を引く時期だと思いました。妻は何も言わず、翌日に離婚届を持ってきて、離婚が成立しました。

月末までは働くことになっていたので、行ける日に出勤しました。あと4日で仕事が終わるというときに専門病院へ行ったのは、体がつらかったからです。妻が出ていった家の中で、風呂に入らずひげも剃らず、食べないで飲んでいたので、体重は45キロまで減っていました。妹に「病院へ行こう」と言われ、抵抗する気力もありませんでした。

そこで「アルコール依存症です」と言われ、「え?」と驚きました。実は院長が母の昔からの知り合いだったので、てっきり普通の内科のような診察をしてくれるのだと思っていたのです。後から思い出したのですが、私の叔父もアルコール依存症で、そこに入院したことがありました。

「もう酒は飲めない」「30日入院が必要」と聞いて、騙されたような気がし、「だったらやめてやる、でもいつかまた飲んでやる、俺はアル中なんかじゃない」と思いました。しかし飲まないでいられることを証明するはずだったのに、翌日にはもらった抗酒剤を飲まずに焼酎を飲む自分がいました。仕事の最終日に入院を決めたのは、疲れたからです。とにかく何も考えず休みたい……その一心でした。

「優等生」でいたかった自分

入院中、思ったより体力が復活してからは、「優等生」で過ごしました。つい周囲が考えるであろう「正解」に自分を合わせてしまうのです。自助グループへの出席率もよく(と言っても、出席のスタンプを集めると断酒カレンダーがもらえるのでせっせと行っていたのですが)、勧められて入院患者の自治会長も勤めました。プログラムに参加したり人に紹介された本を読むうちに、少しずつですが、私の中で何かが変わっていきました。気の合う入院仲間ができ、人の話に耳を傾けるようになったのです。

「この人ともっと話をしたい」と思う人とも出会いました。時々病院で酒害体験を話してくれる断酒会員です。その人が話す内容やかもし出す雰囲気は、入院仲間とはまったく違っていて、心に響くものがあったのです。

断酒の決心ができたのは、今思うと自分の中の「優等生でいたい」という気持ちが幸いしたのかもしれません。形だけでも断酒を続けるルートに乗るために、退院後はデイケアに通い、断酒会にも入会することにしたのです。デイケアの手続きは病院に言えば進めてもらえますが、断酒会入会は自分で動かねばなりません。いつどこでどう入会すればいいのかと考えるのが負担でしたが、一緒に入会する入院仲間を探し、それに便乗するようにして入会にこぎつけました。

退院後2週間で母が亡くなり、広い家に妹と二人のさみしい生活になっても飲まずにいられたのは、結果的にデイケアと断酒会があったからでした。デイケアの始まりは朝の朝礼で、その後、散歩をします。私が話したいと思った断酒会員の人も散歩から来てくれていて、ぽつりぽつりといろいろな話をしました。一人でぽつんと家の中に居るのが嫌で、時にはその人の家まで行って、話を聞きました。またデイケアや夜の断酒例会には、遠くから毎日来る人や、逆にいろいろな土地の例会に参加している人もいて、自分にはない行動力に感銘を受けました。これまでとは違うものの見方、考え方に触れるうち、もっといろんな人の話を聞きたいと思うようになっていったのです。

酒に囚われ生きていくことがままならなくなり、いろいろなものを失いながらも、酒をやめて新しく生き直している――。その体験談ひとつひとつが、とても勉強になりました。自分はこれまで何をしてきたんだろうと振り返りました。ただ自分さえよければいいと思って生きてきたのではないか? 結婚にしろ仕事にしろゲームにしろ、私が求めたのはたぶん達成感だったのではないか? どうしたらいいかわからない困った状況になっても、私はそれに向き合って臨機応変に新しい行動をとることができない。そんな自分をごまかすために、酒を飲んでいたのです。記憶をなくすまで飲むのが私の飲み方でした。生きることから逃げるための酒だったんだとわかったとき、やっぱり自分は依存症なんだと思いました。

ようやくできた自分の居場所

「人によく見られたい」「優等生でいたい」というのは、孤独感、劣等感の裏返しです。今考えると、私は優等生だった子ども時代の幼稚な価値観のまま生きていたのかもしれません。断酒を通していろいろな価値観に触れ、人と関わることによって、今はものの見方、考え方が変わりました。マニュアル通りに進む関係はなく、誰もが試行錯誤しながら失敗したり、うまくいったりする中で生きている。そしてそれをどうとらえるかは、その人次第なのです。

数年前から、週2回介護のアルバイトを始めました。断酒会とデイケアにも変わらずに通っています。独り身の生活がさみしいこともありますが、人間はみんな孤独な存在で、人生、いいときもあれば悪いときもあると受けとめることができるようになって、しんどさが減りました。「こんなことがあった」「大変だった」「面白かった」と話せる人、話せる場があるからだと思います。無口だった自分が、今は自分のことを話す時間がたくさんあります。

※写真は本文とは関係ありません