回復のカギ

「パニック障害」「アルコール依存症」を抱えて……。回復に必要だったのは、社会で生きていく勇気と努力だった。

E・T 断酒9年(女性・43歳・施設勤務)

パニック障害

私は、もともとはお酒が苦手でした。初めて飲んだのは中学3年のとき。頭がぐるぐるする感じで気持ち悪く、自分には合わないと思ったことを覚えています。当時、私は親に反抗していて、学校をよくサボり、家にも帰らず遊びまわっていました。それでも母に心配をかけたくないという思いがどこかにあって、母にだけはときどき連絡し、「おとんと別れたら家に帰る」と言っていました。なぜ「おとん」なのか。それは私の幼少時代に関係していました。

父は面白くてひょうきんでやさしい人ですが、かつて大きな問題を抱えていました。賭博です。まともに働かず、博打を打っては借金を重ねていました。小学校から帰ってくると、玄関の前にはよく借金取りが来ていました。父は寝ていて起きてこず、私は息を殺して玄関の覗き穴から外を見て、借金取りが帰るのを待っていたことを覚えています。

父は荒れていて、私は大好きだった子ども会のバレーボールも習字も「会費がもったいない」とやめさせられました。「成績が悪い」と叩かれ、はだしのまま外に出されたり、「おまえのしつけが悪い」と責められた母と一緒に水を頭からかけられたこともあります。私が10歳のとき、父は「まじめになる」と言ってやり直すことを決め、一家で引越しました。それから生活は安定していくのですが、私はなかなか新しい土地になじめず、過去の体験がずっと尾をひいていたのです。

両親に反抗するようになった私は、高校も行かず、16歳で家を出て、つきあっていた彼の家に転がり込みました。後にその人と結婚することになります。苦手だったお酒を本格的に飲むようになったのは、19歳で水商売を始めてからです。先輩に「ウーロン割にすると飲みやすいよ」とアドバイスされ、飲んでみたらその通りで、どんなお酒も飲めるようになりました。

それまで、人に嫌われるのが怖くて、人の顔色をうかがいビクビクしながら生きていたのに、飲めば人づきあいが楽になるし、話も弾む。「テキトーな私」「理想の私」を作ってくれるのがお酒だったのです。

お客さんに「体が小さいのにお酒強いなぁ」と感心されると、誉められたことのない私は嬉しくてもっと飲みました。水商売は昼間の仕事より給料がよく、それまで手が出なかったアクセサリーや服を身にまとい、自分がお姫様になったような気分でした。けれども、そうして新しい自分を満喫する日々は、そう長くは続きませんでした。

いつものようにお店で飲んでいて、突然、異変が起こったのです。全身が震え、汗が出て、喋ろうとしても声がうまく出ないのです。何が起きたのかわからないまま、震える手で必死にグラスをつかみ、一息に飲んだら治まりました。それ以来、人に接するとこの異変がまた起こるのではないかと思い、人が怖くなってしまったのでした。仕事に行くために電車に乗ると、息ができなくなって窒息しそうになる。店に着いても、怖くてドアを開けられない。スーパーで買い物をしても、レジのお金のやり取りで定員と手が触れ合うと思った瞬間、手が震えてしまう。それを抑えるには、飲むしかない。お酒は私を気持ちよくさせてくれるものではなく、症状を和らげてくれるものに変わったのです。

いくつか病院へ行きましたが、どこへ行っても「異常なし」と言われました。「精神的な問題かもしれない」と思い、精神科へも行きましたが、そこでも「異常なし」と言われました。やがて何をするにも飲んで態勢を整えないとできなくなり、お酒が手放せなくなっていきました。

私はお酒を飲むために生まれてきたんじゃない!

そんな生活を続け、だんだんと食事も喉を通らなくなり、栄養失調で倒れたのは7年くらいたってからです。自宅で倒れ、彼に電話で助けを求め、病院に連れて行ってもらいました。医師に「このままだと死にますよ」と怒られ、すぐに帰されることになるのですが、その帰り際に、看護師さんが彼を呼び止めて言ってくれた一言が私の運命を変えました。「これは個人的にお話することだけど、もし困ったら、この病院に行ってね」と。手渡されたメモに書いてあったのが、アルコール専門病院の電話番号だったのです。

実際に電話をするまで、4ヵ月かかりました。その間、私は水商売の仕事をやめて結婚。家にいる時間が増え、猛烈な飲酒欲求と離脱症状に襲われるようになりました。朝、夫が仕事へ行くと飲み始め、一日中飲まずにはいられない。夫が仕事から帰ってくると、早く自由に飲みたくて「早よ風呂入れやぁ」「早よ寝ろやぁ」と思う。夫が寝静まった頃、階下にある冷蔵庫へ行くのですが、体が震えてまともに歩けないので、階段を座って降りて、四つんばいになって進む状態。冷蔵庫のドアを開け、缶ビールを手にしても、手が震えて開け口が持てずスプーンでこじ開けるのです。自分に何が起きているのかわからず、怖くて専門病院に電話をして診察に行ったのです。

病院で「アルコール依存症」「パニック障害」と診断されたときは、救われた思いでした。どこの病院でも原因不明と言われ、何年も悩んできた症状に「パニック障害」という名前がついていたのです。パニック障害の薬が処方されて、今までの異変は病気だったんだと安心し、これでやっと治る、治ればお酒も飲まなくてすむ……単純にそう考えていたのです。

ところが毎日飲んでいた抗酒剤の副作用が出て使用をやめたら、再び猛烈な飲酒欲求に襲われるようになりました。通院した帰り道に、コンビニでお酒を買って飲んでしまう。飲むと歯止めが利かず、すぐに連続飲酒になってしまうのです。家では夫や姑の目があるので、飲むために母のところへ転がり込んだりしました。母は依存症について知らないので、お酒も買ってきてくれるし、飲ませてくれると思ったからです。結局、夫に連れ戻され、再び通院を始めましたが、お酒が止まらず、「女でアル中、人生終わった。なぜこんなことになってしまったんだろう」と思い、飲みながら泣く日々でした。

やめたい自分は確かにいるのに、やめられない。どうしたらいいかもわからない。主治医に何度も自助グループを勧められましたが、人の集まるところはパニック発作が出そうで怖くていけない。でも、このままでいいのか?と思いました。今ここでお酒をやめなければ、自分は一生、やめられないのでは?と。私はお酒を飲むために生まれてきたわけじゃない!そう思いました。そうして自分を奮いたたせ、断酒会に行ってみることにしたのです。33歳のときでした。

怖かったですが、例会場へ行ってドアを開けた瞬間、家族の人が温かく迎え入れてくれて、ほっとしました。中高年のおじさんばかりで、こんなところでやっていけるのだろうかと思いながらも、「飲みたいけど、飲まないためにここに来ました」と話すうち涙が出てきました。帰り際、1人の人が私を呼びとめ、「来週も待っています」と言って自分の体験談を渡してくれました。家に帰って読んでみると、私がしてきたことと同じようなことが書いてあって、「私だけじゃなかっだんだ」とわかり涙が出てきました。自分と同じような苦しみを体験し、それでもお酒をやめている人がいる。ここでお酒が止まるかどうかわからないけど、通ってみようか、断酒してみようか……。私がアルコール依存症という病気を初めて受け入れた瞬間でした。

社会の中で回復していくということ

それ以来、お酒は飲んでいません。毎日通院しながら毎週水曜日に例会に行くようになり、1時間やめるのも苦しかった断酒が1日、1週間、1ヵ月、1年と続き、現在断酒9年になります。いろいろな人たちに支えられ、私の人生は予想もしなかった形で発展していきました。

一つ目の変化は、断酒4ヵ月目に、合同例会で自分の体験を話したことです。パニック障害を持つ私にとって、300人以上の人の前で話すなど自殺行為だと思ったのですが、断酒会の家族の方と主治医の協力で実現しました。文章にして発表することにし、2人に添削してもらったのです。「ここをもっと詳しく」「この『しんどい』っていう意味を自分の言葉にしないと」と的確なアドバイスをくれたおかげで、言葉で表現する大切さを学びました。当日はものすごく緊張しましたが、倒れずに発表を終えることができました。「できないと思うことも、勇気を出して努力したらできる。1回できたことは必ずまたできる」と思え、前へ進み続ける勇気が出たのです。

二つ目の変化は、断酒1年目の出産です。妊娠と同時に精神薬をやめたので、パニック障害の症状が出てきたり、より一層神経質になったりして、最初は大変でした。外を歩いていていても、たとえばペンキのにおいがしただけで、これはシンナーと同じだからお腹の子どもに影響が出るのでは?と思ってしまったり、小さなこと一つ一つが不安でたまらなくなるのです。その度に飲酒欲求が出て、コーラを何本も飲んで乗り切りました。産科医に逐一「大丈夫でしょうか?」と聞きに行くので、面倒がられているのではないか?やっぱり自分はおかしいんだと思い、苦しかったです。「おかしいとわかっているんだから、おかしくない」と言ってくれた専門病院の主治医、「がんばりやぁ」と励ましてくれた断酒会の仲間たち、看護師さん、スタッフ、見守ってくれた家族の支えがあったから、無事、出産できたのだと思います。

そして三つ目の変化は、息子を通し社会に参加していったことです。息子が3歳になり、幼稚園に通い始めたことで世界が変わりました。人ごみが怖いので、最初は幼稚園に連れて行くことすら不安だったけれど、「やらなあかん」と思ったのです。子どもの力はすごいです。2年目には保護者会の小さい役、3年目にはくじ引きで専門委員会の副委員長になってしまい、どうなることかと思いましたが、無事やり遂げることができました。つらいことがある度、例会で話し、「がんばってるなぁ」と温かく言ってくれる仲間がいたからできたことです。普通の人なら難なくできることかもしれないけれど、仲間たちは、それをするのがいかに大変なことかをわかってくれるのです。

息子が年長さんのときから、区民祭りなどで断酒会が毎年出展しているアルコールパッチテストのブースも担当するようになりました。それまでは、ママ友の目を気にして避けていたのです。私が断酒会のブースにいたら、アルコール依存症だと人にわかってしまう。そうしたら息子が幼稚園でいじめられるのではないか、と。その懸念を吹き飛ばしてくれたのは、夫でした。「おまえな、他の人がアルコール依存症にならないために、訴えていく、それもボランティアやで。俺やったら100%自信を持って参加するで」と言ったのです。その次の年から、参加するようになりました。

パッチテストのおかげで、ママ友にも正直に伝えることができました。それで息子がいじめられることもありませんでした。一昨年のパッチテストでは、小学4年生くらいの女の子が近づいてきて、「私のお父さん、お酒飲んだら怒る」とぽつんと言いました。「もしあなたのお父さんが、この病気だとしたら、あなたが嫌いで怒るんじゃないよ。この病気がそうさせているんだよ」と言ってパンフレットを渡し、困ったら担任や保健の先生を通し保健センターに相談できることを伝えましたが、ここに自分がいてよかったと本当に心から思いました。

息子が小学校にあがってからも、いろいろなことがありました。クラスの子が息子にちょっかいを出し、過剰防衛で怪我をさせてしまったとき、菓子折りを持ってあやまりに行って許してもらったにも関わらず、学校に連絡されたり。自分の意見が言えず、悔しい思いをしていたときにスクールカウンセラーを紹介され、その人にもすごく助けられました。「私は精神の病気があるから、子どもに目を向けてあげられなくてこうなったんでしょうか?」と言って、自分がパニック障害とアルコール依存症を抱えていることを話すと、カウンセラーは涙を流して「よくがんばってきましたね。一緒にやっていきましょう」と言ってくれたのです。毎週、じっくり話を聴いてくれたおかげで自分の考えを整理することができて、学校にも意見を伝えることができました。

怖くても勇気を持って社会の中に飛び込んでいくことで、私はゆっくりと回復してきています。周りの人たちに支えられ、ここまで来ることができて、本当に恵まれていると改めて思います。昨年からは、アルコール作業所でスタッフとして週3回働き始めました。まだまだ心に余裕がないので、今日一日が必死です。自分の至らなさを感じたり、できると思っていたことができなかったり。落ち込むことはありますが、ここでもまたたくさんの人の優しさに救われていて、「大変なときほど笑顔になれるように努力」と思える自分がいます。これからもしんどいことはたくさんあると思うけれど、きっと何とかやっていけると自分を信じて――。そのためにも、今日も例会へ行き、一日断酒を続けます。

回復のカギ
●搬送先の看護師が専門病院を教えてくれた
●酒を飲むために生まれてきたわけじゃないと思ったこと
●悩んでいるのは1人ではないと思えたこと

※写真は本文とは関係ありません

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