回復のカギ
日本料理店の板前だから、飲んで当然という気持ちがどこかにあった。
H・S 断酒7年(男性・43歳・調理師)
仕事が自分のすべてになっていた
「金目の煮付け、お願いします!」
「あいよ!」
次々、料理のオーダーが入り、それをバンバンさばく。殺気だった厨房の中で、ひたすら料理を作り続ける……。それが、かつての私の日常でした。
私は日本料理店で板前をしており、常に日本酒がある環境の中で働いていました。「これだけ働いているんだから、ちょっとくらい飲んでもいいだろう」。そう思って、人が見ていない隙に、日本酒をくいっと一杯飲む。また一杯飲む。
店には12時間くらいいるから、1時間に一合のペースでちびちび飲んでも、一日で1升分の酒になります。仕事では高い評価を得ていたし、飲んでもろれつが回らなくなることはないので酒に強いと思っていましたが、今思えば、アルコールへの耐性ができていてその量では酔えなくなっていたということなのでしょう。だから、仕事を終え帰宅しても、酒を飲む。酒は私の一部であり、なくてはならないものになっていたのです。その酒が、私のすべてを奪っていくことになりました。
35歳で、新しい店を任されるというとき、その話がダメになりました。飲んで自転車に乗り転倒し、骨折したのです。仕事も休まざるを得ず、ただ家に居ても、やることがない。酒を飲むしかなく、酒に溺れていきました。週1回の通院で整形外科に入ったとき、「最近、体調が悪くて仕方ない」と言うと、血液検査をされて「ずいぶん飲んでいますね」と酒のことを指摘されました。「一度精神科で診てもらったらどうですか?」と勧められ、そんなところへは行けない、行く必要もない。第一、なぜ精神科なのかと拒否しました。
ところが、妻の行動は早かったです。その日のうちに入院できる精神科病院を探してきて、「仕事をしないと」と拒む私を「骨だって折れてるし、とにかく入院して休まないと」と説得しました。そこで、「アルコール依存症」と診断されました。
もう嘘はつきたくない
3ヵ月入院し、やっぱり酒はやめようという意識を持ちました。退院後も、3ヵ月は順調でした。ところが、「もう半年やめたから、ビール一杯くらいいいだろう」という考えがむくむく出てきました。その日は、花火大会。妻子は出かけていました。花火を見るため外に出たら、浴衣姿の男女がぞろぞろ歩いていて、すっかりお祭り気分です。目の前のコンビニも出店を出していて、フランクフルトを焼く香ばしいにおいが充満していました。それに引き寄せられるように足はコンビニに向かい、飲酒欲求はピークの状態。ついビールを買って飲んでしまい、後は坂を転げ落ちるがごとくでした。
それでも、一人でやめられると思っていました。私はもともと意地っ張りです。幼少の頃に野球をしていて網膜はく離になり、医師に「二度と走るな」と言われて以来、ハンディキャップを乗り越える反骨精神のようなものが培われていたこともあると思います。何か困難があるたびに、自力で解決方法を探し、人の倍、努力して解決することを繰り返してきたのです。ところが、今回だけは、どうしてもうまくいかない。酒に対し自制が効かないのです。結局、2回目の入院となり、何が悪かったんだろう、どうすればいいんだろう、と何度も自問自答しました。
仕事の目処も立たず、妻子との関係も悪化していました。自分がどんな状況にあるのか、思い知らせてくれたのは、妻の言葉でした。病院の外泊時、家に帰った帰り道、妻に「今の俺は正常にものが考えられない。家族にとっていちばんいい方法を考えてくれ」と頼むと、「このままだと息子たちに悪い影響を与えるから、離婚してほしい」と言われたのです。「あなたが今やっていることは、あなたが嫌っていたお父さんとお母さんがしていたことと、一緒なんだよ。だから言う通りにして!」と。
両親は自営業で、私は傍目にはいい暮らしをして育ちました。しかし内情は、バブルの崩壊で火の車になっており、私が網膜はく離になったときも、「なぜこんな大事なときに。いくらかかると思っているんだ」と両親に叱られたほどです。悪口は言いたくないのでここまでにしますが、以来、両親とうまくいかず、私は17歳で家を出て、幼馴染だった妻と生きてきた経緯があります。私の何もかもを見てきたその妻が、私は両親と同じだと言うのです。ショックでした。最初は「そうではない」とごねましたが、今は妻の判断に従ってよかったと思います。
私は「親たるもの、こうあらねば」という気持ちが強く、息子たちにも「人を裏切るな。弱い者をいじめるな。力で押さえつけるな」と言ってきました。しかし、当の自分は、飲めば威圧的になる。「酒をやめる」と言って、飲む。平気で嘘をつき、裏切って、矛盾だらけの父親の姿しか見せていなかったことに気づかされました。それどころか、離婚、失職と大切なものを失う中で、酒が止まらず盗みまでするようになり、最低の人間に成り果ててしまったのです。
酒が止まったのは、病院の心理士さんが、これまで一人で抱えてきた自分ではどうしようもない心の問題に耳を傾けてくれたことがきっかけでした。少しだけ楽になり、「また診てほしい」と頼みました。そのとき、「1つだけ約束して欲しいことがある」と言って、話してくれた言葉が心に刺さりました。「私は、あなたのように『飲んでいない』と言って、飲んで亡くなった人を何人も見てきました。あなたにその一人になってほしくない。だから酒に関して、嘘をつかないと約束してくれたら、診てもいい」と。
私の中には「飲みたい」「やめたい」という2つの気持ちがあって、いつも「飲みたい」という気持ちが勝っていました。けれども、心理士さんの言葉が、「酒をやめたい」という気持ちを動かしたのです。嘘をつかなくて済むように、次に会うときまで飲まないでいよう。何もかも失い生活保護になっても、酒だけは飲まないでいようと思い、飲まない時間が一日、また一日と積み重なっていきました。
「いい加減」で生きていくということ
断酒会にもつながりました。1回目の入院のときにプログラムで参加したので、その存在は知っていましたが、何の意義があるのかまるでわからず、「しょせん飲んでいる人の集まり」と見下し、その中で酒がやめられるなど信じていませんでした。けれども、なぜ酒が止まらず2回も入院し、同じ治療をすることになったのかと考えたとき、1回目のときにちゃんとやっていなかったのは、自助グループに通うことだと気づいたのです。
例会に通う中で、これは心理士さんのカウンセリングと同じ効果があるのだとわかりました。楽になって帰ってくるのは、逆を言えば、自分がいかにぎりぎりいっぱいの状態になっているかということを示していたわけです。溜まったストレスをまぎらわすために、酒が必要だった。だったら、ストレスが溜まる前に、小出しにすればいい。そう理解したら、例会の必要性がわかり、行くのが楽しくなりました。そうして断酒が安定していったのです。
調理師として再就職するまでは、6年かかりました。と言っても、前のような板前ではなく、デパートの社員食堂です。そこを選んだのは、自然体で働くことができると思ったからです。以前の自分の仕事に対するモットーは「100%力を出し切る」で、時に120%くらいの力を振り絞って働いていました。しかし、その働き方ではまたぎりぎりいっぱいになって、ストレスが溜まり飲んでしまう。断酒していることは私の生活の大前提になっていたので、慎重に仕事を選んで、無理せず、出しても80%くらいの力で働けるところを探しました。
別れた妻子とも、再び連絡を取るようになりました。元妻とは月1回の電話。長男とは月1回くらい、一緒に食事をします。次男は「俺は料理人になる」と言って、イタリア料理の店に就職し、偶然にも私の働いているデパートに配属されました。昨年、転勤で引っ越すまで、私が住む部屋の上の階に住んでいて、何かあると「今から行ってもいい?」とやってきて、いろいろな話をするようになりました。再び家族として全員一つ屋根の下に集うことはできないし、みんなにたくさんの痛みを与えてしまったけれど、こういう形でも関係を続けることができてよかったと思います。次男には、「親父は人間らしい生活をするようになったなぁ」と言われます。本当にそうだなぁと思います。
こうやって自分を振り返ると、アルコール依存症の恐ろしさをまざまざと感じます。今、どんなにうまくいっていても、一度酒に手を出すと制御が利かなくなる。私はその危機感を持ち続けないと、いつでも後戻りしてしまうのです。だから今日も、断酒例会へ行く。仲間の話を聴くことによって、自分がかつてどうであったかを思い出し、今日も酒をやめ続けていこうと心を新たにするのです。
- 回復のカギ
- ●元妻の的確で敏速な対応
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※写真は本文とは関係ありません