回復のカギ
「明るくて、できる子」という仮面の裏で、摂食障害とアルコール依存が進んでいた。
T・Y 断酒1年(女性・28歳・主婦)
期待に応えて、評価されたい
昨年の夏、27歳のときに初めて精神科病院に入院しました。夫に「アルコールの治療をしているところがあるから、一緒に行こう」と言われ、「うん」と即答したのは、この苦しさがなくなるのであれば何でもいいという思いからでした。
当時、私は1年半ほど商社の営業事務をしていました。派遣で入ったのですが、上司が私の仕事に対する姿勢を気に入ってくれて、すぐに社員に登用。大切な顧客を任されていました。「君ならできる。いずれこの営業所を引っ張って行ってくれ」と言われ、大きすぎる期待に応えようと必死にがんばっていたのです。
仕事量に関しても、顧客とメーカーの間に立つやりとりに関しても、「無理です」「できません」と言えない環境でした。自分が失敗してみんなに大きな迷惑をかけたらどうしよう?期待に応えられなかったらどうしよう?と、休日さえも起きている間は常に仕事のことが頭にあって、寝ても夢まで仕事のこと。特にはじめの半年間は、仕事が終わって家に帰ってからも勉強する日々が続き、極度のプレッシャーを感じ、だんだんとシラフでいるのがつらくなっていきました。それを紛らわせてくれたのが、アルコールです。
最初は「仕事ばかりじゃなくて、リラックスすることも覚えなきゃ」と言っていた夫も、仕事とアルコール漬けになっていく私を見て「そんな仕事もうやめてしまえよ」と言うようになっていました。自分の努力や存在価値を否定された気がし、こんなにがんばっているのに、なぜそんなことを言うのかとますます意固地になりました。
アルコールは一瞬だけ、頭の働きを抑えて何も考えないようにしてくれます。けれども酔いが冷めれば、ネガティブな考えに襲われます。やがて手の震えも出るようになって、仕事前や昼休みにも隠れて飲むようになりました。そんな中、同じ派遣元で私が正社員になったことをよく思っていなかった同期の人に言われた攻撃的なある一言がきっかけで、何かがパーンとはじけました。帰宅後、浴びるようにお酒を飲んでブラックアウトを起こしました。そのときの私がどんな様子だったのかわかりません。しかし異常を感じ取った夫が上司に「もう会社には行かせられない」と連絡し、1ヵ月仕事を休むことになったのです。
その1ヵ月の間、家にこもって飲み続けました。自分でもどうにもできず、家事もせずろくに風呂も入らず、まるで廃人のような生活でした。ついには幻覚に襲われ飛び降りようとしたりして、夫が心配して仕事を早退し様子を見に帰ってくる状態になり、冒頭のように、私は精神科病院へ行くことになったのです。
「長い人生のうちの、たった2ヵ月だよ」
本当は精神病院へ行くのは嫌でしたが、初診のときに張り詰めていた心が緩むのを感じました。医師が、初めてお酒を飲んでから今に至るまで、どんなときどんなふうに飲んでいたか、どんな気持ちだったか、なぜそうなっていったかなどを、4時間くらいかけて丁寧に聞いてくれたからです。
しかし自分がアルコール依存症で、もう一生飲めないということや、通院ではなく2ヵ月入院を勧められたことは、どうしても納得がいきませんでした。アルコールは、私のすべて。私の最大級の欲求。それが一生飲めないなど考えられないし、そのために入院費を払うなんてもってのほか、と。
ベッドの空きの都合で「入院するなら2週間後に」と言われたので、それまでに自分の意志でやめてみせると思いました。「今日からやめてみせる」と決め、飲まずに寝て、「ほら、やっぱり依存症なんかじゃないじゃん」と安心しました。
ところが朝起きるなり、強烈な飲酒欲求に襲われました。明らかに異常なレベルで、自分でも驚きました。病院で医師に言われた「あなたはまじめな人で、自分を責めがちです。飲まないと決め、それでもし強烈な飲酒欲求に襲われて飲んでしまっても、自分をあまり責めないでください」という言葉が頭を駆け巡りました。
結局、耐え切れず飲んでしまい、後は飲んで吐いての繰り返しでした。飲みたくないのに、飲まずにはいられない自分が情けなくて、なぜこんなふうになってしまったんだろうと涙が出てきました。
それでも入院前に、もう一度だけ試してみようと思い、1日ビール1杯だけでやめてみました。できたので、やっぱり依存症じゃないと思い込もうとしました。そんな私が入院を決めたのは、友人の一言がきっかけでした。「うつで入院を勧められてるんだけど、やめようかな」と話したとき、「医師が勧めるのに、自己判断でやめるのはよくない。人生は長いし、その2ヵ月だけだし、きっといい人生経験にもなるよ」と言われたのです。矛盾していますが、私は誰かに「それでいいんだよ」と背中を押してもらいたかったんだと思います。
苦しさに蓋をする生き方
依存症者は、常に「飲みたい」「やめたい」という2つの気持ちを持っているといいます。私の場合も同じで、それがくるくる入れ替わる感じでした。入院当初は離脱の苦しみを経験したこともあって、アルコールプログラムを真剣に受けていました。ところが1ヵ月ほど経ち体が元気になってくると、なんでこんな場所に閉じ込められなきゃいけないんだという考えがむくむく出てきたのです。
「夫が姑の看病をしていて大変」「私が入院している場合じゃない」「退院しても施設に通所して自助グループも通うから大丈夫」と口実を並べ(そのときは本当にそう思っていたわけですが)、自主退院しようとしました。
今思うとそのときの看護師長さんの対応は、絶妙でした。「2ヵ月のプログラムを1ヵ月でやめる人が、施設とか自助グループを続けられると思う?」と言ったのです。すると「本当は入院生活がストレスなんです」と、自分でも気づかなかった本音が出てきたのです。それは私にとって、初めて誰かに正直に弱音を吐いた瞬間でした。
私はそれまで何かつらいことや困ったことがあっても、常に明るく「大丈夫です」「がんばります」「平気です」と言ってきたし、自分でも「それができる、できている」と思ってきました。でも、本当はそうではなかったのです。
看護師長さんに、他の入院患者と一緒にいる空間自体にストレスを感じることや、自分の不安、さみしさ、怒り、情けないと思う気持ちを話していくうち、いつしか子ども時代のことや父のことを話していました。私は飲んでブラックアウトをするたびに、「父に申し訳ない」とあやまっていたらしい、と。
祖父のアルコール問題、母の舅姑問題、父の死……。私はさまざまな葛藤を抱えて育ちました。父は身障者で、余命が長くないことを告げられており、私は幼い頃から父を助けられない自分に罪悪感と無力感を持っていました。そんな中、私は5歳のとき十二指腸潰瘍を発症。手術をしたその直後に父が急死してしまったのです。頭では「過去は過去。私は乗り越えた」と思っていたことが、ずっと私に大きな影響を与え続けているのだと、おぼろげながら自覚していました。
実は私はアルコールの他に摂食にも問題があり、長年過食嘔吐をしてきたのです。発端は十二指腸潰瘍での入院生活でした。手術もあり、1年の入院のうち3~4ヵ月は絶食の状態。そのときに感じた食べたいものを食べられない飢餓感と、後遺症である消化不良感を和らげるため嘔吐を覚えたことが下地にあり、10代後半からは食べて吐くことがストレスの発散になっていきました。
一人暮らしをしていた短大時代は、バイト代で食べ吐きのお金をまかなえずカードローンを繰り返していました。強烈な飢餓感があり、一口、口にしたら、止まらない。こんな自分はもう死んだ方がいいと思ったとき、二日酔いのときに食欲が落ちたことを思い出し、アルコールへの依存にスイッチしていったのです。
そのとき、看護師さんにこうしたことをすべて話したわけではないですが、自分が失ってきたものと抱えている闇のその大きさに圧倒され、「怖くてこんな自分には向き合えない」と泣きました。看護師長は「27年ずっとそうして自分を守って生きてきたんだし、向き合うのは少しずつでいい。気づいたときからが始まりよ」と言ってくれました。
ストレスがあるたびに、そこから逃げて、何かでごまかそうとする生き方を変えたい。そこから、私の回復が始まりました。予定通り2ヵ月きっちり入院し、病院から依存症の女性施設に通うことにしたのです。
焦らずにやっていこう
初めて施設へ行った日のことは、忘れられません。思い切って施設長さんに「実は私、摂食障害もあるんです」と話すと、当たり前のように「みんなそうだよ」と言われたのです。さらにミーティングの中でみんなの話を聞いたとき、その心の生きづらさはまさに私だ!と驚きました。あんなおかしなことをしたり、悩んだりしているのは自分だけだと思っていたからです。
といっても、「生き方を変える」ことと、アルコールをやめることは、最初はなかなか結びつきませんでした。断酒しなくても、生き方を変えることはできるのでは?と考えてしまうのです。何度か施設長さんと話し、「依存症はそんなに簡単な病気じゃないよ」と言われ、その通りなんだと納得できるようになったのは、しばらく経ってから。毎日の施設通所でいろいろなストレスを感じるたびに、アルコールや食べ物への欲求が出てきて、あぁ、こういう仕組みなんだとわかったのです。
アルコールや食べ物の自助グループにも参加し、少しずつ心の均衡を取り戻し、症状が治まってきて初めて、自分の根っこはひとつなんだなと感じるようになりました。退院後も施設通所と自助グループへの参加を続け、今も毎日通っています。
最後に夫についてですが、夫は自立心の強い人なので、私の依存症に巻き込まれることなく、「自分のやることは自分で決めな。必要だと思うなら回復に専念したらいい」と言って回復を応援してくれています。私は何事も早く結果を出したいと思う性質なので、地道に何かを積み重ねることが苦手なのですが、今は「焦らないこと」を第一にしてやっていきたいと思っています。私は持病もあるし、とにかく今は健康でいたい。体と心が、少しずつ健やかな方向に向かっているのを感じています。
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- ●友人の言葉
- ●看護師さんの言葉
- ●夫の理解と支え
※写真は本文とは関係ありません