回復のカギ
専門病院を退院後、一週間で連続飲酒に。節酒ではなく、断酒しなければいけないとわかった。
N・H 断酒1年半(男性・53歳・会社員)
解雇され、家に引きこもって飲む
断酒会で酒をやめ、1年半が経ちます。毎日のように夫婦で例会に参加しています。共働きなので、お互い仕事で疲れているときもあって「今日はやめておこうか」と言うこともありますが、必ず「やっぱり行こう」と思い直します。酒をやめる前と後では生活は180度変わりました。なぜこんな変化が起きたのか、振り返ってみたいと思います。
「これ以上、雇うことはできない。会社を辞めてくれ」。そう最後通告をされたのは、一昨年の7月のことでした。怒りよりも、どこかホッとした気持ちがありました。これでやっと辞められる。そう思ったのです。そしてその場で席を立ち、「お世話になりました」と言って会社を去りました。
私は営業職に就いていました。それなりに成績を出していた時期もありますが、仕事がとれない状態が続いていて、かなり圧力をかけられていました。なぜ俺がこんなことばかり言われなければならないのか、悪いのは上司だ。そう思えば思うほど、酒にのめり込み、最後は昼間も飲んで仕事に行くようになっていたのです。
会社を辞めてからは、当然のように家に引きこもり酒浸りになりました。寝ているか飲んでいるかの状態で、心配した妻はインターネットで病院を探したようです。1ヵ月ほど経って「病院に行こうよ」と言われましたが、それは精神科病院だったので、なぜ俺がそんなところへ行かねばならないのかと受け入れませんでした。
実は半年以上前から、手に震えが来るようになっていました。それが焼酎を飲むと、ぴたりと治まるのです。うすうす「来たな……」と感じていましたが、認めたくなかったのです。
恐れと焦りの中で、自暴自棄になり、結局、酒を飲み続けることしかできませんでした。しかし、1時間おきくらいに胃を絞るような強烈な痛みに襲われます。ぐっと堪えて焼酎を飲むと少しは治まるのですが、またすぐに痛みが復活する。痛くてたまらず、ついに耐え切れなくなって妻に「病院へ行く」と伝えました。8月末のことです。
家を出るときも焼酎を飲んで、残りをペットボトルに入れて持って行きました。入院が決まり同意書にサインをした覚えはありますが、後は記憶がありません。後から知ったのですが、私は焼酎の入ったペットボトルを病室に持って行こうとして暴れたそうです。妻や看護師に止められても「飲みたいから飲む!」「もったいないから飲む!」と譲らなかったとか。このように飲酒後の記憶を失うことを「ブラックアウト」と言うことを入院時の酒害教育で知りました。
入院中は飲めないけれど
当時の私はアルコール依存症がどんなものなのか、離脱症状がどんなものなのか、まったく知識がありませんでした。目覚めても、手や体が震えて茶碗も湯飲みも持てない。歩けない。風呂に入ることもできず、看護師に「手伝いますよ」と言われ恥ずかしくて頑なに拒み、自分はどうなってしまうのだろうと不安でいっぱいの状態でした。
4、5日で自力で病室の外に出ることができるようになりましたが、足腰のガタガタは治まりませんでした。しかも、誰かが沖縄風の子守唄を耳元で歌っていてうるさいのです。夜には上からパイプを叩くような音が聞こえ、「うるさくて寝られない」とナースコールをかけました。看護師さんが来て「今も聞こえますか?」と言われ、気づいたら消えていて、「さっきまで聞こえていたんです」と訴えたことを覚えています。これらがすべて幻聴であり、それも離脱症状の一つだったと気づいたのは、酒害教育でした。思い出して恥ずかしくなりました。
離脱症状が治まり体調がよくなっていくまで、1ヵ月ほどかかったように思います。「喉元過ぎれば……」と言いますが、その頃には入院生活にも慣れ、おとなしく「いい子」をしていたら外泊ができるという情報を得て、それだけを心待ちにするようになっていました。
病院に居れば不思議と飲むことを忘れていることも多いのですが、外泊をしたら飲めると思うと、わくわくしました。待ちに待った外泊が決まったときは、本当にうれしかったです。
当然のように、酒を買って帰りました。当時は妻もあまり依存症について理解していなかったこともあり、飲んでいる私を見ても「あまり飲まないでね」と言うだけでした。病院に戻るときには、アルコールチェックがあるため、病院で使っているアルコールチェッカーと同じものをホームセンターで購入し、数値がゼロになってから戻りました。
今思うと、いかに自分が酒にとらわれていたかわかります。けれども当時はそんなことも気づかず、とにかくごまかして早く退院することだけを考えていました。だから院内例会に出て先輩たちの話を聞いても、「俺はやめたぞ」という自慢話にしか聞こえませんでした。自分は酒をやめるつもりはない、今の自分には無理だと思っていたのです。
4ヵ月の入院を終え、最後に院長と話をしたときは、正直に話したら退院させてもらえないと思ったので、例会の数が少ない断酒会を調べて「これからはこの断酒会に入ります」と嘘をつきました。晴れて退院となったのは、12月の終わりでした。
帰り道、妻と2人でスーパーに寄り、「とりあえずこれでがんばってみる」と言って、ノンアルコールビールを3種類買いました。病院ではノンアルコールビールは飲酒欲求を引き起こすからダメだと言われていたのですが、3種類のうちどれかは自分の口に合って、それを飲むようになれば、このままやめられそうな気がしたのです。
ところが飲んでみたら、どれも一口で「これじゃダメだ」と思いました。ビールじゃないのです。結局、全部飲まずに捨ててしまい、妻の買い物について行って、当たり前のようにビールをかごに入れました。ビールが焼酎になり、手の震えが復活して晩酌程度が連続飲酒になるまで、一週間かかりませんでした。一杯飲んでしまえば逆戻りする――。入院時に酒害教室で言われた通りになってしまったのです。
断酒会に行けば何とかなるのか?
これがアルコール依存症なのか……?焼酎を片手に梅を見ながら、そう思いました。もしアルコール依存症であれば、節酒はできない。酒を断つしかないのか?自分は仕事のストレスから酒がひどくなっただけで、その前は普通の酒飲みだったと思っていたけれど、甘く見ていたのか?と。
前年の7月に解雇され、9月に入院し、無収入になっていたばかりか1ヵ月14、5万円もかかる入院費を妻に4ヵ月も捻出させてきたことを思い出し、愕然としました。どうにかしなければ、何とかしなければと焦りました。入院中に学んだ資料をひっくり返し、パラパラと手帳をめくりました。ほんの少し前のことなのに、初めて見るようなことばかりでこんなことをやっていたのかと驚きました。
断酒会へ行けば何とかなるのだろうか?やってみるか?と何度も思いました。しかし自分は院内例会しか出ておらず退院してからも断酒会に行っていなかったし、一番近い会場でも車で2時間半かかるので、なかなか勇気が出ませんでした。そんなとき助けてくれたのが、同じ時期に入院していた仲間でした。「酒が止まらん」と連絡すると、妻に電話を代わってくれ、とりあえず妻が先に家族会に行ってみることになったのです。
その後、かつて院内例会で顔を合わせたことのある断酒会の理事長さんと連絡をとり、「飲んでます。止まりません。でも断酒会に行っていいでしょうか」と伝え、了解を得て妻と2人で行ってみました。1月末のことです。
断酒会なら、家族も一緒に参加できる。それは私にとって大きな一押しになりました。1人では人前に出るのが怖いが、妻と2人で行けば、何とかなるだろうと思えたのです。妻の運転で例会場へ行きましたが、最初の日がどうだったかまるで覚えていません。ただジーっとしているだけだったように思います。
それから毎日のように例会に参加することになりました。妻が仕事に行っている間、1人で家に居るとどうしても飲んでしまうのですが、飲みながらでも不思議と妻の帰宅を心待ちにして例会の準備をしている自分がいました。例会へ行けば、何となくホッとしたからだと思います。そうして「ここで酒をやめていこう。自分にもできるかもしれない」と思えたのは、十日ほど経ったときでした。
その日も飲んで行ったのですが、仲間を見ていたら自分もやめられるのでは?と思いました。今しかないと思い、断酒会の入会届けを出しました。帰宅して家に残っていた焼酎を飲み干し、妻に「これでやめる」と告げ、「本当に?」と言われたことを覚えています。後に妻には「あれで本当にやめるとは思えなかった。私はもう一度病院に入院して欲しいと思っていた」と言われましたが、本当にそれからピタリと酒が止まったのです。
すべて必要なプロセスだった
こうして振り返ると、退院してから断酒会に入会するまでの1ヵ月ちょっとの間に、ばたばたと断酒への道が整ったように思います。それはまるでバラバラだったジグソーパズルが一気に揃ったような、それまでの経験がすべて凝縮された時間だったように感じるのです。酒などやめる気はないと思っていた入院生活の中でも、自分の中で少しずつ何かが変わっていた。退院後に飲んでしまったけれど、だからこそ自分はアルコール依存症であることを確信した。そうしなければ、どれほど妻や周囲に迷惑をかけていたかを振り返ることもなかったし、断酒会につながることもなかったかもしれません。
今、断酒会例会で酒を飲まない仲間たちの話に耳を傾けていると、なるほど、と思うことがたくさんあります。新しく入会してくる仲間を見ると、「以前の俺と同じだな」と自分を振り返ります。
断酒5ヵ月目から、友人の仕事を手伝うようになりました。以前の仕事とは分野も内容も全然違いますが、問題なく続けることができています。不思議ですが、前は自分は営業が天職だと考えていました。けれども今は、自分には向かない仕事だったんだと改めて思います。人の顔色を気にする性格だし、いつもストレスを抱えていたからです。酒にとらわれることなく、この穏やかな生活で、地に足を着けて行きたい。改めてそう思います。
- 回復のカギ
- ●妻がインターネットで専門病院を探した
- ●再飲酒したとき、入院仲間が妻に断酒会を紹介してくれた
- ●断酒会の理事長さんが、飲んでいても来いと言ってくれた
※写真は本文とは関係ありません