回復のカギ

なぜ私だけが家庭に入らなければいけないのか?その葛藤が始まりだった。

Y・Y 断酒8年(女性・57歳・病院勤務)

異国の地でAA(アルコホーリクス・アノニマス、自助グループ)につながった

私の酒がひどくなったのは、子どもを生んでからです。妊娠中は酒もタバコも体が受けつけなかったのですが、出産後ストレスから飲むようになりました。それまで仕事も家庭も完璧にこなしていたのに、出産を機に退職。同じ医師である夫がキャリアを積み重ねる一方、私は開業医をしている実家の手伝いと子育てをする日々で、自分が取り残されてしまったような気がしていました。

このままではダメになると考え、週2回病院に勤務しましたが、2人目の子どもを妊娠して結局、仕事はあきらめました。そんな中、夫のアメリカ勤務が決まりました。私も一緒に渡米し、夫のいない家で子どもと過ごす中、じわじわと酒の問題が進んでいきました。

日本での生活と違い、夫は毎日早く帰宅します。私のおかしさに気づいたのでしょう。「気持ちが沈んでいるようだから病院へ行こう」と言われ、一緒に病院へ行ったのは渡米2年目のことです。医師は飲酒問題を疑っていましたが、正直に「はい」とは言えませんでした。

処方されたうつの薬をアルコールと一緒に飲んで救急車で運ばれたり、酔って目覚めたら子どもがひきつけを起こしていたり。どうにかしなければと思い飲むのをやめようとしても、やめられないのです。酒を買いに行けないよう夫に財布を預けても、カードで買って飲んでしまう。どうしたらいいかわからず、思い切ってアメリカ人の友人に相談すると、「いいところがある」とAAを教えてくれました。

女性だけの集まりがあると聞いて、行ってみました。とても新鮮な感覚で、こんな世界があるんだと驚きました。そこで知り合った女性に「ここだけでやめていくのは大変だから、カウンセリングも併用した方がいい」と勧められ、カウンセリングも行ってみました。けれども数ヵ月後には帰国という時期で、結局、中途半端なまま日本に帰ることになりました。31歳のときです。

誰にも気づかれずに治したい

帰国後、両親に「アメリカでアルコール依存症になった」と話すと、「おまえがそんな病気のわけない」と言われました。両親は厳格な人たちで、私は子どもの頃から人目を気にし、親に認めてもらうことを最優先に考えて生きてきました。アメリカにいた頃は忘れていたその感覚が蘇ってきて、心が閉じていくのを感じました。この問題については、誰にも言ってはいけないのだと。

何とか内緒で治すことはできないか。書店でアルコール関係の本を探しても、その本を手にとったら人にアル中だと思われるのではないかと考え挙動不審になってしまう。それでも断酒会というものがあると知り、思い切って電話してみましたが、「名前と住所を教えてください」と言われ、怖くなって切ってしまいました。

そうこうしているうちに数年が過ぎ、夫があちこちに相談して私が行けそうな病院を探してきました。今思うと驚くべきことですが、夫は飲んでいる私を決して責めませんでした。私が「あなたが私の仕事を奪った」と夫を責めても、「病気なんだから治してほしい。あなたがこれで終わるとは思えない」と言い続けたのです。

夫が紹介してくれた病院では、担当医が2時間たっぷり話を聞いてくれ、結果的にその人が主治医として私にずっと伴走してくれることになりました。

「アルコールの問題もあるけれど、根っこには思春期の問題があるね」と言われ、自分の子ども時代を振り返りました。幼い頃から両親の顔色を気にし、優等生でいなければ嫌われてしまうと思ってきたこと。両親と祖母は関係が悪かったので、本当は祖母のことが好きだと言えなかったこと……。自分に烙印を押す私を、主治医は「あなたは本当にきつい生活をしてきたのに、これまでがんばってきた。それだけでもすごい」と励ましてくれ、その通りなんだと思えました。けれども酒は止まらず、入退院を繰り返しました。

入院中はもうこりごりだと思い、飲みたい気持ちも出ず、完璧に治った、二度と家族に迷惑はかけないと思うのに、退院して1ヵ月もするとまた飲みだしてしまうのです。ついに主治医に「このまま私があなたを診ていたらダメな気がする。プログラムがあるところへ行きなさい」と言われ、初めて専門病院につながりました。そこで、かつてアメリカにいたときに行ったAAと同じものが、日本にもあると初めて知ったのです。

日本にもあったんだ……!それはうれしい驚きでした。ミーティングで人の体験を聴くのは楽しく、自分もすぐに酒をやめられそうな気がしました。ところがそう簡単にはいかず、結局、実家に連れ戻され、1年入院している間に離婚に至り、子どもとも会えなくなりました。

主治医は私が専門病院入院している間も、医師やケースワーカーと連絡を取ってくれ、2週間に1回の電話カウンセリングを続けてくれました。絶望したまま退院を控えていた私に、主治医が出した提案は3つ。退院後は実家からAAに通うか、医師が顧問をしている障害者センターに寝泊りしてボランティアをしながらAAに通うか、アルコールのリハビリ施設に入るかという選択肢でした。

決める気力などありませんでしたが、「自分で決めなければダメだ」と言われ、選んだのはリハビリ施設です。実家へは戻りたくないし、かと言って一人でいたら飲んでしまう。リハビリ施設へ行くしかありませんでした。37歳のときでした。

プログラムを信じることが大切だった

まずは専門病院から通所する形で新しい生活が始まりました。主治医に「あなた、どう考えても元気になってるわね」と言われたのは、しばらく経ってからです。それまで笑うことも怒ることもなく、廃人のようだった私が、「通所して帰ってくると、ときどき怒っている」と。当時は自覚がありませんでしたが、怒りは生きるエネルギーの一つでもあったのです。

退院にあたり、主治医からは「ご両親も説得するし、条件だけは整えるけれど、これからあなたはプログラムに集中していかなければならないから、私は相談には乗らない」と言われショックでした。リハビリ施設では、当時、女性の利用者は私だけ。AAでは女性の古いメンバーが出迎えてくれ、「24時間いつでも電話してくれて構わないから」と言われ、すごく心強かったことを覚えています。

他に選択肢がなかったとはいえ、周囲は生活保護を受けている年配の男性ばかりで、今考えてもよく続けたと思います。最初はプライドなど感じることができないほど弱りきっていました。自分が置かれている状況に対し葛藤を感じるだけの力が戻ってきても、施設のスタッフを信頼できるようになるまでには時間がかかりました。それまで専門家に聞いた知識と施設で聞く知識を頭の中ですり合わせ、ほぼ同じことを言っているんだなと思えたとき、初めてここで言われることを信じてやってみようと思いました。

プログラムを2年で修了し、仕事を探すにあたっては、いろいろ悩みました。施設からは同じ職種に就かない方がいいと提案されており、私も自信がなかったのでハローワークでパートの仕事を探したのですが、履歴書に最終学歴や職務経歴を書くと、根掘り葉掘り聞かれたうえに不採用になってしまうのです。そこで書くのは高校までの経歴にし、うつで離婚をしたという設定にしたら、すぐにパートが決まりました。

ちょうどいいバランス

もう1度医師として働いてみたいと思うようになったのは、1年ほど経った頃です。迷った挙句、思い切ってもとの上司でもある大学の恩師に相談してみました。AAのパンフレットを持参して、これまでのことを話すと、恩師は「そうだったのか。でも元気になってよかった」と言ってくれました。すぐには決まりませんでしたが、AAに通い続けることができるような距離と時間設定の職場を紹介してもらうことができました。

2年勤めた職場には、自分のことを正直に話し、「ここで働いた経験があったからもう1度やってみようと思えた」と伝えました。「どおりで何かおかしいと思っていたよ」と言われましたが、温かく応援してくれました。そのとき、10年のブランクがあって本当にやっていけるのだろうかという不安がすーっと消えて、「やれる!」と確信しました。一つのことをきちんと終わらせることができたら、新しいことを始められるのだと実感しました。

AAに通い続けるため、新しい職場には「ボランティアをしているので時間の制約がある」と伝え、了解してもらって始めたのですが、いざ仕事が始まるとそうも言ってられなかったようで、すぐに上司に「ボランティアって何なんだ」と聞かれてしまいました。思い切って「AAに通っている」と伝えると、「そうか。そういうことなら行けばいい。みんなに迷惑をかけない範囲でやってください」と言われホッとしました。

10年ぶりの仕事復帰は、想像したよりスムーズでした。覚えなければならないことはたくさんありましたが、やはり慣れた分野なんだと改めて思いました。仕事内容は自分が苦手としていたものでしたが、逆にそれがよかったようです。過度に仕事にのめり込むことなく、適度に集中していくことができたからです。

そうして現在まで、16年働き続けることができています。振り返ると、リハビリにしても仕事にしても、自分がそれを嫌だと思っても、やるべきことをやっていくと、嫌ではなくなるという繰り返しだったように思います。以前の私には、信号が赤と青しかありませんでした。「迷わず進む」「絶対にやらない」という白黒思考にとらわれ、どちらかに決めなければいけないと思っていたのです。けれども今は、その中間の「待つ・そのままでいる」という黄色信号ができています。時にそうした方が楽だしストレスも失敗も少ない。断酒を通しそのことを学んだような気がします。

回復のカギ
●渡米中にAAへ行った
●主治医が段階を追って方向性を示した
●リハビリ施設のプログラムの意義を理解したこと

※写真は本文とは関係ありません