回復のカギ

様子を見に来た娘に「専門病院があるから行こう」と言われ、「うん、わかった」と答えていた。

M・H 断酒6年(男性・59歳・元船員)

海に出られないなら、自分の人生は終わった

酒をやめるまで、私は船乗りをしていました。30年以上フェリーに乗っていて、1年の3分の2は海の上。陸には月10日もいればいい方で、家族は大変だったと思いますが、海の上で過ごす時間が私は好きでした。

3交代のきつい仕事でしたが、終われば飲んで疲れを癒すことができました。しかしそんな生活は7年前のある日、突然、終わりました。脳腫瘍ができて、てんかん発作を起こしたのです。

腫瘍は幸いにも良性で、経過観察をするだけの処置でしたが、てんかんが起きる可能性があるとなると、もう船には乗せてもらえません。会社と話し合い、一年休んで様子を見ることになったものの、自分の人生はもう終わったと思いました。

長く陸に居るのは子どものとき以来。娘と息子はすでに自立していて、妻と2人の生活で、どう日々を過ごせばいいのかわかりませんでした。このまま二度と船に乗れないのでは? やめるとしたらどう生きていけばいいのだろう? そんな恐れを忘れるかのように酒を体に流し込みました。妻は「今までもこんな生活をしていたの? 船で何をしていたの?」と驚きながらも酒を用意してくれていましたが、だんだんと喧嘩が絶えなくなっていきました。

外で働いている妻が仕事から帰ると、「また飲んでるんでしょ!」と怒ります。「飲んでない」と答え、そこから喧嘩が始まるのです。私は女性に手はあげないと決めていましたが、その分、口で暴言を吐き、物を投げ、抵抗しました。飲んだ瞬間は、私も「いかん」と思うのです。しかし体は逆らうことができず、飲まずにはいられないジレンマがありました。

「あんた、そんな飲み方をしてたら、家族をなくすよ」と言っていた妻が、本当に出て行ってしまったのは、1年後です。休職期間を終え、復職願いを出し、却下された矢先のことでした。もう船に乗ることもできない。子どもたちは自立し、妻も出て行ってしまった。一番大事なものが、一気になくなってしまった……。すべてを忘れるため、いくら酒を流し込んでも、酔うことすらできず、気を失うまで飲み続けました。

酒でよどんだ世界から、明るい世界へ

それから病院へつながるまでの3ヵ月の間、記憶がほとんどありません。曜日や日にちだけでなく、酒を飲んだことすら記憶にないのです。思い出そうとしても、庭で倒れていて誰かに「大丈夫か? 救急車を呼ぶか?」と聞かれ、「いらん」と答えたことや、近くに住む娘が様子を見にきたことが、ただぽっ、ぽっと走馬灯のようによみがえるだけ。おそらくほとんどの時間はブラックアウトしているか倒れているかで、覚えているのはわずかに酒が抜けた瞬間だけだったのでしょう。

ある日、近くに住む娘から電話がかかってきて、「専門病院があるから行こう」と言われ、「うん、わかった」と言ったことは覚えています。その足で焼酎を買いに行って、ラッパ飲みしました。その頃には酒の味など感じなくなっていたのに、なぜか味を感じました。多分、その数日前から飲めなくなって倒れていたのではないかと思います。

病院では、先に娘が診察室へ入っていきました。その後、私が入り、先生に「アルコール依存症です」と言われました。やっぱりそうか……、という納得のような安堵のような気持ちでした。しかし「入院です」と言われると、狂ったように反抗しました。「毎日ここに居られるか! バカじゃないか!?」と、今考えると本当に失礼なことを言ったと思います。先生は「では1年間、1週間に1回通院するのはどうですか?」と譲歩してくれ、「それなら行ってやる」と通院が決まりました。

その日、私は1人で家に帰りましたが、なぜか酒を買いに行きませんでした。数日間、ひたすら寝ていたように思います。目覚めたら、すっきりした気分だったことを覚えています。そういえば、断酒会って言ってたな……。病院からの帰りがけに、断酒会のパンフレットをもらったことを思い出しました。

普段ならそういうものはもらってもすぐに捨ててしまうのに、持ち帰ってきたのは、何かひかれるものがあったからなのかもしれません。パンフレットに書いてあった会場に電話をすると、支部長さんの連絡先を教えてくれ、電話してみました。初めて行った日のことは、鮮明に覚えています。和室で、ふすまをパッと開けた瞬間、ものすごく明るい世界が開けた感じがしてホッとしました。

その日から、何の違和感もなく、例会に参加するようになりました。不思議ですが、それからというもの、飲酒欲求を感じることもなく、ぴたりと酒が止まったのです。

私は娘に命を助けられた

その後、半年目にアルバイトを始め、今もそこで働いています。幼馴染が「バイトくらいしろ」と言って、紹介してくれたのです。昼までには終わる仕事で、断酒会にも行きやすいと思い、決めました。収入は低いですが、仕事や金に走ったら元の木阿弥になるだろうと考えたのです。

飲酒欲求がわかないことについては、自分でも不思議で、なぜなんだろうと何度も考えました。私は飲んでいた頃でさえ、飲めなくてイライラしたという記憶がないのです。船に乗っていた頃はいつでも飲めたし、休職して酒浸りになってからも、妻は一度も「酒を飲むな・やめろ」と言いませんでした。それどころかいつも酒を買ってきてくれていたのです。では、なぜ自分は妻に対して暴言を吐いたりものを投げたりしていたのか?

私は酒をやめられない自分自身に腹が立ち、その葛藤を妻に向けていたのではないかと思います。やめなきゃいけないと思うのに、酒が目の前にあると飲んでしまう。妻に「また飲んでる!」と怒られ、「飲んでいない!」と反発しながら、本当は「助けてほしい」と言いたかったのかもしれません。アルコール依存症はややこしい病気だと改めて思います。

専門病院を探し、私に「病院へ行こう」と言ってくれた娘は、当時、私のことを誰にも相談できなかったと言います。なぜあれほどまでに飲むのか、どうしても理解できず、インターネットで調べてアルコール依存症という病を知ったそうです。娘が専門病院を探してくれたことで、私は治療につながり、断酒会も知ることができました。娘には、本当に感謝してもし足りません。

先日、断酒会のブロック大会で体験談を発表したとき、娘と妻が聞きに来てくれました。その後、娘が私に手紙をくれました。「体験談の中で、娘に助けられたと言っていましたが、助けたいと思うような気持ちを持てる心に育ててくれたのは、お父さんとお母さんです」と書いてあり、涙が出ました。

数年前から、妻はちょこちょこ家に顔を出してくれるようになりました。関係の修復には時間がかかると感じていますが、息子や娘もときどき孫を連れてきてくれて、新しい家族の形が少しずつでき始めています。陸での生活は、まだ慣れない部分もあります。けれども、酒を飲まずにいられることがうれしいし、過去を惜しむより新しい生活を作っていった方がいいと思えます。

回復のカギ
●娘が様子を見に来た
●娘が専門病院を勧めた
●断酒会のパンフレット

※写真は本文とは関係ありません

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