回復のカギ

上司が家まで来て「病院へ行くぞ」と言ったとき、上司はすでに妻と話し合い、治療の段取りをつけていてくれた。

S・K 断酒6年(男性・58歳・販売店勤務)

酒気帯び運転で、減給・降格の処分を受けて……

心の中で、まずいと思いながら飲んでいる。そんな自分が情けなく、ますます酒を飲む。6年前の私は、飲めば飲むほどつらくなる悪循環の中にいました。

酒がひどくなったのは、40代で支店長になってからです。思い描いたように業績が伸びず、そのストレスを酒で紛らわせました。晩酌の量が増えていき、妻に「飲みすぎじゃないの?」と言われるのが嫌で、隠れて飲むようになりました。自分の家で自由に酒も飲めないのかと腹立たしさを感じながらも、ベッドの下や押入れの中、物置き、車の中と、あらゆるところに酒を隠しました。そんな状態で飲んでもちっとも美味しくないのに、飲まずにはいられない状態になっていたのです。

49歳のとき、酒気帯び運転で捕まりました。その日は休日で、私は朝から飲んでおり、昼前に用事を済ますため車で出かけたところ、シートベルト不着用で警察に留められたのです。「臭いますね。交番まで来てもらえますか?」と警察官に言われたとき、自分はもう終わりだと絶望的な気持ちになりました。家を新築したばかりでローンもたくさんあるのに、酒気帯び運転が会社にバレたらきっとクビになってしまう……。しかし会社に報告しないわけにはいかず、意を決して上司に伝えました。

翌日、上司の計らいで朝一番で重役のところへ行くと、「まずは俺に身柄を預け、処分については任せろ」と言ってくれました。結局、前代未聞の対応で、クビは免れました。しかし公表せずに済むわけはなく、各店舗に私の懲戒処分の文書が回りました。そして数ヵ月後の人事異動では降格となり、恥ずかしい気持ちを通り越して自分がみじめでなりませんでした。

社内の信頼を裏切り、重役にも迷惑をかけ、自分はこれからいったいどうしたらいいのか? 酒気帯び運転をしたのでさすがに節酒はしていましたが、自分を責め続けた私が、再び酒に手を出すのにそんなに時間はかかりませんでした。「このままではおまえは廃人になってしまう」――。あるときついに、上司にそう言われました。会社を休んでいた私をわざわざ訪ねてきてくれたのです。

上司は妻ともすでに話をして打ち合わせていたようでした。「病院へ行くぞ」と言われたら、逆らうことなどできませんでした。上司と妻と3人で病院へ行くと、最初は自律神経失調症ではないかと言われましたが、その後、上司と妻だけが診察室に呼ばれ、何やら話をした後、その足で他の病院へ行くことが決まりました。もう一つの病院に着いたとき、看板に精神病院と書かれているのを見て大きなショックを受けました。上司には「何も心配するな。3ヵ月ここにいろ」と言われ、医師からは「アルコール依存症です」と診断され、自分はこれからどうなってしまうんだろうと不安でたまりませんでした。

もう酒は飲めないのだと思うと、ますます飲みたくなる

アルコール依存症の治療には断酒が不可欠ですが、私は入院しても、断酒などできっこないと思っていました。酒が飲めない世界はあり得ない、そんなの無理だという思いが強く、何とか節酒でいけるのではないかと何度も考えました。しかしそう考えれば考えるほど、もっと飲みたくなってしまうのです。

入院中のプログラムで依存症という病気について学んだり、自分を生い立ちから振り返ったりし、やはり自分は依存症なんだと思う気持ちもありましたが、同時に、いや、ここにいる人たちと自分は違うと思う気持ちもあって葛藤しました。たまたま同じ町内の人が入院していて、「近くに断酒会があって、いい人がいるからそのうち紹介するよ」と言われましたが、「断酒会」という名前自体が嫌で、行きたいとは思えませんでした。

それでも退院後、例会に行ったのは、妻の後押しがあったからでした。私はすぐに仕事復帰したので、妻も不安があったのだと思います。折にふれ「断酒会に行かないの?」「行くだけでも行ってみたら?」と勧めるので、仕方なく行ってみました。みんなで輪になって話すので、最初は正直、異様な感じがしました。ところが「とにかく毎週来てみたら? 顔だけでも出してよ」と言われ、会を重ねるごとに、その断酒会の会長さんの人間性に魅かれるようになりました。この人の話を聞きたい、この人と話したいと思ったのです。

そうして例会に顔を出しているうちに、飲みたくなっても「ここで飲んだらまずい」と考えたり、「自分はこれからも飲めないんだ」という気持ちが出てくるようになりました。飲みたくなると、喉の刺激が恋しくなるので、コーラなど炭酸のものを飲んだり、甘いものを食べたりして紛らわせました。何よりつらかったのは、やはり食事のときでした。食べる前に飲みたいのに、それができないことが淋しいのです。

また、私は仕事柄、酒席に出ることが多く、復帰後もそれは変わりませんでした。1人ウーロン茶を飲んでいる自分が情けなくて、何度、飲んでしまおうかと思ったか。しかし、断酒会に行って、また「この一週間、飲まずにいることができました」と報告しなきゃと自分を励まし、何とか乗り切っていきました。

酒をやめるだけでなく、生き方を変えることで断酒が続く

後から考えて、一つ良かったなと思ったことは、会社だけでなく、親戚、友人にも「私はアルコール依存症です」とカミングアウトして、それを受け入れてもらえたことです。みんなそれまでの私の飲み方を知っていたので、断酒を応援してくれ、誰も私に酒を勧めなくなったし、「アル中だから」と蔑むことも、私との付き合いを変えることもありませんでした。そのおかげで、飲まないで自分らしくいようと思うことができました。

自分の中で、「これからも飲まないでいよう」という気持ちが固まってきたのは、断酒1年後くらいからです。自分にとって飲むのは人を裏切る行為であり、飲んで自己嫌悪に陥るのはもう嫌だと思うようになっていました。飲まないでいれば、まともに判断ができるし、車の運転もできるし、仕事もはかどる。飲まないでいることのメリットを感じることができるようになって、断酒が安定していったように思います。飲みたいときがあっても、昔にはもう戻れないのだということを少しずつ受け入れていったのかもしれません。

振り返ると、私は人にも職場にも恵まれていたと改めて感じます。断酒4年目で、再び支店長に昇格することができました。そのとき、上司に言われた言葉があります。「あなたは、人の弱さが多少なりともわかったはずです。そのままでいてください」――。酒をやめるだけでなく、自分の生き方を変えなければと思いました。

飲んでいた頃は、「自分が引っ張っていくんだ」と考え120%の力を出そうとし、ワンマンになってストレスを抱え込んでいました。部下との関係もよくなく、業績も伸びずますます苦しくなり、酒で気持ちを紛らわせていました。しかしそれは傲慢な考え方だったのです。今は、出せる力は100%までで、それでうまくいかなかったら、「一生懸命やってこうなのだから仕方がない」と考えるようになりました。部下に対する態度も変わってきて、みんなの力を借りてチームで仕事をしているんだという意識が強くなってきました。部下がうまく成績を出せないときは、必ず何か理由があります。一人一人に目を向けられるようになって、「なるほどなぁ。そういうことだったのか」と思うことが多くなりました。

断酒8年が経ち、一時は離婚寸前まで行った妻との関係も変わってきているのを感じます。といっても、迷惑をかけたという思いは今だ消えません。けれども最近、そうやって過去を忘れずにいることが、妻に対する罪滅ぼしなんだと思うようになりました。うちは共働きなので、断酒後は私も家事の分担をしています。料理、洗濯、掃除、洗い物。飲んでいるときは何もしませんでしたが、やってみたら意外と嫌いではありません。

回復のカギ
●上司が治療を勧めた
●信頼できる仲間との出会い
●依存症のカミングアウト

※写真は本文とは関係ありません

男性版の一覧へもどる