回復のカギ
元夫のDVと借金問題で離婚。いつしか酒にのめり込み、何もかも失ったけれど、それでも前を見て生きていく。
M・N 断酒4年(女性・47歳・主婦)
自分への「1日のご褒美」として飲んでいた酒が……
私は31歳のときに、夫のDVと借金問題、浮気問題が原因で離婚し、当時3歳と0歳だった子どもを連れて実家に戻りました。母に気を遣いながら仕事と育児と家事に追われる中、1日の自分へのご褒美として、ビールを飲むようになったのが習慣飲酒の始まりです。そのうち友人が働いている飲み屋で飲むようになり、飲む量が増えていきました。
39歳のとき、新しい彼氏ができてからは、もっとひどくなりました。「もうちょっとしたら帰ろう」と思っているうちに深夜になり、彼の家に泊まり、起きたら「昼までには帰ろう」と思いまた飲んでしまいます。そのうち「夜までに帰ればいいや」となって、家を空けることが多くなり、子どもを置いて彼の家に入り浸るようになってしまいました。
そこから半年は、地獄のようでした。彼は元夫と同じように暴力を振るう人で、私は殴られながらもなかなか別れることができませんでした。その苦しさや、子どもたちを置いてきてしまった罪悪感を忘れるため、酒をあおるのですが、飲むとますます子どもたちに会いたくなるのでした。
彼の家を飛び出して、お金も持たず、何度かタクシーで実家の近くまで戻りました。友だちを頼り、タクシー代を出してもらったり話を聞いてもらったりしたのです。私が友人に迷惑をかけていることを知った母と兄は、ますます怒り、私はアルコールの専門病院に入院させられることになりました。ところが女性の病床は少ないとのことで、1ヵ月半待ちの状態で、その間、私は彼からのDVで怪我を負ってしまいました。
母に整形外科へ連れて行ってもらいました。事情を知った医師が「この状態でアルコールの治療を1ヵ月も待つのはよくない」と言って、すぐに入院ができて依存症に詳しい医師のいる病院を探してくれました。病院へ向かう車の中で、母と兄が「とにかく病院へ行こう。退院したら子どもと一緒に暮らせるから」と言っていたのを覚えています。病院に着いて問診表の酒量を書こうとしたとき、兄に「おまえはもう帰るところがないんだから、ここに入院するしかない。酒の量を多く書いとけ」と言われ、家には二度と帰れないのだとショックを受けました。
退院して20日で再入院。それでも酒がとまらなかった
入院中は、ここで変なことをして退院させられたら、きっと子どもたちとは二度と会えないという一心で、医師の言うことを聞いていました。病院にはアルコールのプログラムがなかったので、私は毎日自分でスケジュールを組んで自助グループに参加することになりましたが、そのための交通費がなく、それだけは母が出してくれました。
けれども自助グループは男性ばかりで、何を話したらいいかわからないし、知らない人の前で話をしたくもない。変な宗教か何かで、ツボでも買わされるんじゃないかと疑ったりもしましたが、ある日、どうしてだか、ミーティングに参加している人たちが私の事情に合わせて話をしてくれている気がしました。私は少しずつ元気を取り戻し、4ヵ月の入院を終える頃には、生活保護を受けて一人暮らしができるまでになっていました。
ところが退院したその日、先生に「絶対に連絡を取るな」と言われていた飲み友だちに連絡をとってしまい、退院祝いに焼き鳥屋に行きました。その場では飲まなかったものの、帰ってから「みんなは飲んでいるのになぜ私は飲めないんだ」と考えて眠れなくなり、翌日コンビニへ行って大量に酒を買い込み飲んでしまいました。
今思えば、すぐ断酒会の仲間に電話をすればよかったのですが、当時はそんなことも思いつきませんでした。再飲酒した後は離脱症状でひどい幻覚に襲われ、部屋にこもって飲み続けるしかありませんでした。
退院後、連絡が取れなくなった私を心配し、病院のスタッフが訪ねてきたのは20日後です。幻覚の中にいた私に向かい、「ここで先生の診察を受けよう」と言って、先生を連れてきてくれました。その後、病院へ行くと、夜だというのにスタッフが玄関で私を待っていてくれました。そのまま保護室に入り、翌日目が覚めたとき、ようやく現実の世界に戻ってくることができました。
それでも10日間入院し、退院したその日にまた飲んで、もと入院仲間の家に入り浸って酒を飲みました。「やめたい」と心底思ったのは、そのもと入院仲間が酔って警察沙汰を起こしたからです。その姿を見て、酒は怖いと思いました。私には子どもがいるから、こんなふうに狂うことはできない、と。
それでも酒をやめられず、必死の思いで断酒会の人に連絡し、「酒がやめられません。断酒会に入りたいんです。やめたいんです」と言ってから、私の断酒が始まりました。その人はすぐに家に来てくれ、私の離脱症状につきあってくれました。眠ることもできず、うろうろと歩き回り、「この震えは止まるんですか?」「止まるよ。もうちょっとがんばろう」と、何度も同じ会話を繰り返したことを覚えています。そうして離脱症状が抜け、毎日例会に参加する日々になりました。
依存症をカミングアウトして助けを求めた
その後、私は断酒一年目に、断酒会の仲間と再婚しました。と言っても、一緒に暮らし始めたのはそれから一年後でした。かつて元夫や彼氏からDVを受けていたので、男性と同じ空間で暮らす恐怖を克服しなければならなかったからです。
その間、私は妊娠し、出産しました。さんざん悩みましたが、「神様が酒を飲んじゃいけないと言ってくれているのかもしれない」と思え、産むことを決めたのです。出産後、例会通いができなくなったら自分はどうなってしまうのかと不安でしたが、思い切って保健センターへ行き、「アルコール依存症者ですが、出産後が不安です」と相談すると、「私たちが協力します」と言って、私のために保健所と子ども支援センターとヘルパーさんがチームを組んで応援してくれました。
出産後は、毎日チームの誰かが訪ねてきて話を聞いてくれました。生後2ヵ月目からは、会のスケジュールと参加状況は常にチームに報告することを条件に、保育所を利用できるように手配してくれ、昼間の女性例会や夜の例会に通えるようにしてくれました。本当に、多くの人の支えで今があります。
置いてきた子どもたちのことを思い、つぐないの仕方がわからず、消えてしまいたいと思ったこともあります。けれども同じ女性の仲間から、「あなたはそうやって、現実から逃げようとしているだけよ」と言われたとき、確かにそうかもしれないと思うことができました。私は現実に向き合っていきたい。だから今は、日々の出来事に集中するようにしています。
- 回復のカギ
- ●病院スタッフと主治医の機転
- ●仲間に助けを求めたこと
- ●保健所のチーム支援
※写真は本文とは関係ありません