回復のカギ

離婚を覚悟した妻に「最後のお願い」と言われ、断酒会に参加。妻や子どもたちの思いを知り、断酒を決意した。

T・S 断酒15年(男性・68歳・元外資系企業勤務)

飲むことで、仕事からも家庭からも逃げた

私は酒の席が好きで、若いときから54歳まで、いろいろな口実をつけて飲んできました。友人や同僚と飲むだけでなく、地域のサークルや子どもたちのクラブの父兄会など、仲間とわいわい騒ぐのが好きでした。子ども関係の集まりにも積極的に顔を出していたので、私は一見、子煩悩な父親に見えたかもしれません。けれども今思えば自分がそう見られたいからそうしていたのであって、実際の子育ては妻に任せきりでした。「男は外で仕事さえしていればいい」という考えが、少しずつ家庭に暗い影を落としていったことに私は気づいていませんでした。それは私の酒がひどくなるにつれ、明らかになっていきました。

酒の飲み方が変わったのは、39歳で中間管理職になってからです。営業の責任者として結果を出すことを求められ、週末ごとに上司から「数字が足りない」と連絡が来て、焦りや板ばさみのストレスを酒で紛らわすようになりました。けれどもそんなやり方で、うまくいくわけはありませんでした。7年後には事実上、左遷されて他県に移り、ますます酒にのめり込むようになっていきました。

新しい職場では出張が多く、羽を伸ばせたことも飲酒に拍車をかけたと思います。次第に飲み屋のつけが溜まり、毎月の給料では払いきれなくなりました。月末になると妻に「払えないと会社をクビになるから何とか払ってくれ」と嘘をつき、ボーナスも返済に回し、それでも懲りずに飲み続け、ついにはサラ金にも手を出しました。

私から一方的に金のやりくりを押しつけられた妻は、途方に暮れて何度も自分の実家や私の実家に工面を頼んだようです。妻から「あなたのお母さんに頼んだら、私の管理が悪いと責められた」と泣きながら言われても、私はただ黙って知らんぷりしました。申し訳ないの一言も出てこず、何とかなるだろう、何とかしてくれと思うだけで、完全に自分の責任を放棄していたのです。

50歳を過ぎたあたりから、体の変化も感じるようになりました。酔いが回るのが早く、飲んだら途中でやめることができず、ひどい二日酔いやブラックアウトが増えました。早朝に道路の上で目覚め、頭を触ると手に血がついていたこともあります。その頃には、妻や子どもたちとの関係も悪化していました。酔うときつい口調で妻や子どもたちに絡み、相手が反発して都合が悪くなると、無視して逃げることを繰り返していたからです。

年末年始などで家族が顔を合わすと、必ず口論になりました。せっかく好きな酒やつまみを買ってきて楽しんでいても、子どもたちの言動が気に食わなくなるのです。子どもを威圧し反発され口論になると、私の次の矛先は妻に向かいます。「おまえのしつけが悪いからこいつがこうなる」と妻を責めると、子どもたちは妻を守ろうと私に向かってきて、それを妻が止めに入っている隙に私は自分の部屋へ逃げるのです。

今なら自分がいかに横暴で、臆病だったかがわかります。けれども酔った頭では、「何で俺がこんな目にあうんだ、悪いのは子どもたちじゃないか」としか考えられませんでした。

そんな自分を初めて省みたのは、いつものように私が威圧して口論になり、派手な喧嘩になった翌日、上の子から「すみませんでした。悪かったのは私です」という手紙をもらったことがきっかけでした。酔いが冷めた頭で考えれば、自分に非がありました。こっちこそ怒鳴って悪かった、大人気なかったと言いたくても、言葉にできない自分がいました。妻に「離婚を考えている」と告げられたのは、それからしばらくたってからです。

妻の「最後のお願い」と子どもたちの思い

その少し前、妻は「子どもと旅行をしたい」と言って、数日間旅行に行っていました。後で知ったのですが、そのときに子どもには意志を伝えたそうです。また、妻は当時いろいろな講座に通うようになっていました。手に職をつけるためだったそうですが、私は妻の変化を何かおかしいと感じながらも、やはり見て見ぬふりをしていました。

しかし偶然なことに、妻がある講座で知り合った人が、たまたま断酒会に通っている家族だったことが幸いしました。妻は私に向かい「実は離婚を考えています」と言ったものの、「でも、最後のお願いがあります。今、私が相談している人のところへ一緒に来てほしい」と続け、選択肢を出してくれたのです。

私の中には「離婚は世間体が悪い」という思いと、「この家庭の状況を何とか改善したい」という2つの思いがあって、その人に会ってみることにしました。その人は「断酒会」という言葉を口に出さず、「アルコールについて考える会をしている。来てもらえないか? 実は奥さんも行っている」と説明され、私は「だったら行ってやろうじゃないか」という偉そうな考えで参加を決めました。

20人ほどが集まっている会場へ行くと、「いらっしゃい」「よく来ましたね」と歓迎されました。妻に向かい「旦那さんが来てよかったね」と言っている人もいました。私は外面がいいのでニコニコ挨拶をし、例会が始まるまでそこが酒をやめる会だとは気づいていませんでした。けれどもそこからは、驚きの連続でした。なぜみんな過去の恥をさらすような話をするのか。妻にもびっくりで、家庭の中のことをさらけ出して話していました。

なぜこんなところにいなければならないのかと反発しつつも、そのまま例会に行くようになったのは、ちょうどその月末に断酒会の市民セミナーがあって、運転手を頼まれたからです。会場があったのはよく知っている地域だったので、案内がてらにと思っているうち、警戒心が溶けていきました。

けれども、断酒に向けての最後の大きな一押しとなったのは、自立のため家を出た下の子からもらった手紙でした。そこには「お父さんは酒を飲まないといい人でやさしい。しかし飲むと変わるので、できればやめて欲しい。お母さんを頼む」と書かれていました。遠くの地で自活を始める不安でいっぱいだったろうに、妻と私を気遣う心が胸に響きました。

妻の笑顔

断酒を決意してから、飲酒欲求が出るたび、上の子と下の子の顔を思い出して乗り切りました。私はその後、57歳で早期退職し、退職金でマンションを購入することもできました。2ヵ月とおかず再就職し、64歳まで働き終えることもでき、酒をやめると新しい道が開けていくのだと改めて感じます。

私と一緒に断酒会に通い続け、支えてくれた妻は、5年前にがんで亡くなりました。何も悪いことをしていなかった妻がなぜ? と思いましたが、自覚症状が出たときにはすでに手遅れでした。それでも4ヵ月、子どもたちと私で看病をすることができ、最後のお正月も、病院の中でしたが、家族揃って過ごすことができました。

断酒を始めた頃、妻と断酒会の一泊研修に行ったときのことを思い出します。長い間、表情を出さない妻しか知らなかったのに、とてもいい表情をしていて、妻はこんなにきれいで明るい顔をしていたんだと驚きました。それからも、断酒会の全国大会、研修会、断酒学校と、断酒会を通し2人であちこちへ行きました。飲んでいた頃は一緒に出かけたことなどなく、2人の旅がこんなに楽しいものだとは思ってもみませんでした。

今も妻がいてくれたらと思うことはあります。けれども同時に、「自分なりにやっていくことが、あなたに課せられた仕事だよ」と言われている気もします。そして妻を思うとき、これからも酒をやめ続けようと改めて思います。

回復のカギ
●子どもたちからの手紙
●妻の「最後のお願い」
●断酒会への誘い

※写真は本文とは関係ありません