回復のカギ

昼夜を問わず仕事に追い立てられ、頭をリセットするために飲んだ酒がいつしか止まらなくなっていた。

N・A 断酒9年(男性・51歳・金融系会社勤務)

仕事の重責から逃れたい

このまま何もかも捨ててしまいたい…。30代後半あたりからそんなことを考えるようになりました。会社へ行けば嫌なことだらけで、「今日はトラブルがないように」と願いながら何年出勤してきたことか。

当時、私は自社のシステムエンジニア(SE)として働いていました。朝から18時半までは会議で、定時が過ぎてから自分の仕事をするのが普通になっていただけでなく、コンピュータの「2000年問題」対応も重なり身も心もへとへとでした。

帰宅しても、どうせ職場から電話が来て対応を迫られます。せめて一瞬でも仕事のことを忘れたいと、仕事帰りにコンビニでワンカップの1.5倍サイズを4本買うのが小さな慰めでした。コンビニの前で1本、駅のホームで1本、乗り換えの駅で1本、最寄り駅で1本飲むのです。ところが職場を出て妻に「帰るコール」をすると、たいていコンビニに入る直前で「飲まないで帰ってきて」というメールが来ます。それを見るたび「こんなに苦しいのになぜわかってくれないのか」という気持ちが込み上げてきて、悲しくて涙が出そうになりました。飲むことは自分にとって、1日の終わりに頭をリセットするための大切なセレモニーだったからです。

帰宅して、少しだけご飯を食べて、妻子が風呂に入っている間にまたコンビニへ行って酒を買います。夜中に会社から電話が入ると、即座に対応しなければなりません。何が何でも朝までに問題を解決しないと、翌日の業務に支障をきたすからです。責任の重さから逃れるため、ますます酒を飲み、電話の途中でブラックアウトして「指示を出した・出さない」でトラブルになることもありました。

その頃よく見ていた悪夢があります。真っ暗な中、フェンスのない高いビルの屋上にいて、怖くて汗びっしょりになって目覚めるのです。今思うと離脱症状だったと思いますが、朝起きると熱っぽく、ついに「風邪をひいたので休ませてください」と言ってたびたび仕事を休むようになりました。

妻がパートに出る朝9時頃から迎え酒を飲みました。すると少し気持ちが楽になるのですが、だんだんそういうことが妻にバレてきて、家の中の酒がなくなり、小遣いも減らされました。家中を探しても、1銭も見つかりません。ようやく見つけたのは子どもの貯金箱で、300円とか400円を取り出して喜び勇んでコンビニへ行きました。今から考えればとんでもないことですが、当時は罪悪感がありませんでした。これで酒を買うことができる……。その思いだけで、自分のつらさのことしか考えられなくなっていたのです。家族を大切にする気持ちや愛する気持ちが飛んでいました。

酒をやめ続けるという心積もりができたら……

健康診断でγ-GTPが500以上になり、体も仕事もきつくて、限界を感じたのは40歳のときでした。妻に「酒をやめるところへ連れて行ってくれ」と泣きつきました。精神科クリニックへ行くと、たまたまその先生がアルコール依存症の専門クリニックのことを知っていて、紹介状を書いていただきました。

最初の診察のことは、ほとんど覚えていません。妻によると、医師から抗酒剤を処方され、「もうこれで飲まずにすむ」とつぶやいたそうです。医師に「アルコール依存症・抑うつ状態」という診断書を書いてもらい、9ヵ月休職しました。その間、断酒会に参加し、そこで出会った先輩に「つらかったろう、一緒にやっていこうな」と手を握り締められ、初めて自分のつらさをわかってくれる人に出会えたと感じました。

といっても、すぐに依存症という病気を理解し受け入れられたわけではありませんでした。断酒会に行っても「俺はこの人たちと違う」という気持ちがどこかにあったし、「とにかく1年は絶対に飲まない」と心に誓い、ひたすら酒を我慢していました。そんな状態だったので、時間が経ってくると、「飲んでしまったらどうしよう?」「このままやめ続けることはできるんだろうか?」という漠然とした不安に襲われるようになりました。

どうすればいいのかわからず、主治医に相談しました。「今のあなたに必要なのは腹をくくることです」と言われ、それが私にとっては目から鱗でした。どんなにやめていても、一杯酒を飲めば元に戻ってしまう病気だと頭ではわかっていても、腹の底ではやめ続ける踏ん切りがついていなかったのです。

そのことがわかったら、シラフのままで復職したいという気持ちが固まり、自分の進むべき道が少し見えてきました。私の場合、もとの仕事に戻って酒をやめ続ける自信はありませんでした。かつて「何か困ったことがあったら相談しに来い」と言ってくれた上司がいたことを思い出し、身の振り方を相談しました。すると上司のつてと後押しで関連会社に転籍することができ、それが大きな転機になりました。初日の朝礼で「今までコンピュータ関係の仕事をしていましたが、酒が止まらなくなり1年休職し、転籍しました。酒はいっさい飲めません。酒席は失礼させていただきます」と挨拶し、新たなスタートを切ることができたのです。

双極性障害とアルコール依存症という2つの病

その後、現在まで断酒が続いていますが、道のりは決して平坦ではありませんでした。実は断酒5年目に、私は双極性障害という診断を受けました。なるほど、この病で有名だった作家の北杜夫氏も、こういう状態だったのだと妙に納得しました。私は酒をやめてから、急に武道を始めたり釣りにのめりこんだり、すごく活発になったかと思うと、突然、気分が落ちこんで、深海に沈んだような感覚になり会社に行けなくなってしまうことを繰り返していました。自分でも持て余していましたが、これも病気だったのです。

なぜこの病気になったのか、原因はわかりません。もともとそういう素地があったのかもしれないし、SEをしていた頃のハードな生活が引き金になったのかもしれません。それでも双極性障害に合わせた薬を飲み、行動療法をしながら、年に1、2回は1ヵ月ほどうつで休む生活を続ける中で、少しずつ自分のパターンがわかってきました。「今はうつの時期だから淡々と行こう」とか、寝不足で過覚醒の状態になるとその後どーんと落ち込むので意識的によく寝るようにしたりと、工夫をすることができています。

うつになると、会社を休んで寝っぱなしで、飲酒欲求もまったくわきません。主治医には、うつから躁になるときがいろいろな意味で一番危ないと言われており、気をつけなければと思います。アルコール依存症と双極性障害という2つの病を持っていることを忘れ、他の人と同じように生活していたら、私の「心のコップ」はすぐにいっぱいになって調子が崩れてしまいます。自分の度量を知るためにも、2つの病を持つ自分にとっての「新しい普通」を理解し、それを受け入れて行動していくことが大切なんだと感じます。

そんなわけで、決して順調とは言えない断酒生活ではありますが、実際はそれほど居心地の悪いものではなく、「何事も60点でいい」と自分に言い聞かせています。いちばん大きく変わったのは、困ったときに「助けてください」と言えるようになったことです。飲んでいた頃はコンピュータばかり相手にしてきたし、俺しかいないと一人で頑張ってきました。それはとても苦しかった。今はいろんな人と話し合って協力し合いながら物事を進める楽しさを感じています

回復のカギ
●妻に助けを求めたこと
●病気の自分を受け入れたこと
●双極性障害の診断

※写真は本文とは関係ありません