回復のカギ

突然、解雇を言い渡されて、呆然自失。妻がいてくれたから、治療に結びつき復職することができた。

S・I 断酒18年(男性・60歳・貿易会社勤務)

酒で遅刻や借金が増えていき……

私は42歳のとき、突然、解雇を言い渡されました。「勤務態度が悪い」というのが理由でした。長年営業の仕事をしてきて、海外出張も多く、それなりに実績もあげてきたのに「なぜ?」と衝撃を受けましたが、今なら自分がいかに歪んだものの見方をしていたかわかります。

当時の私は、遅刻の常習犯でした。二日酔いがひどくなっていったのは、30代後半からです。最初は30分の遅刻だったのに、次第に半休になり、そのうち会社に電話を入れるのが億劫になって無断欠勤をするようになっていました。大切な営業を後回しにしたり、取引先とのトラブルも起きていましたが、私はそうした不始末を棚にあげ、自分は何とかやっていると思っていたのです。

依存症は「進行性の病」と言いますが、私の場合は「坂を下る」というより、あるときを境にガクン、ガクンと階段を落ちる、そんな感じでした。一人で飲むのが好きなので、行きつけの飲み屋がいくつもありました。「今日はほどほどにしよう」と思っても、終電に間に合わずタクシーで帰る毎日でした。タクシー代がかさむので、やがてサウナに泊まるようになり、そのうちサウナへ行くお金もなくなり、繁華街を歩いて朝を待ちました。疲れて駅前に座り込んでいると、必ず同じように始発を待つ人の姿があります。それが「いつもの光景」になり、おかしいとも思わなくなっている自分がいました。

名刺で飲み屋につけをするので会社に請求が来て、それを返すため借金をし、サラ金の請求書が家に来るという状態で、共働きの妻が何度も返済してくれました。1回100万円までの額でしたが、これ以上重ねたら離婚されると思いつつも、やめることができませんでした。海外出張の仮払金を飲み代に使い、妻の預金も勝手に解約し、自分はどこまで落ちていくのかという得体の知れない不安に追い立てられる日々でした。

社長から解雇を言い渡され、呆然としました。常務に「一度病院で診てもらった方がいい、駅まで送ってやるから」と病院を紹介され、そのまま車に乗りましたが、結局、病院へは行かず飲み屋へ行きました。42歳で手に職もなく、これからどうしたらいいのか? いくら飲んでも酔うことができず、どうしたらいいかわらずタクシーで家に向かったのは、夜の1時半頃だったと思います。まっすぐ帰る勇気がなく、近くの公衆電話から家に電話をしました。妻に「今ここにいるから」と伝えて帰ると、妻は家の前に迎えに出てくれていました。仕事も肩書きもプライドも、それまで積み重ねてきたすべてを失ない、白旗をあげた瞬間でした。

アルコール依存症は、治療することができる病

後になって知りましたが、私が解雇を言い渡される数日前、妻は社長から呼び出されたそうです。妻は「仕事だけはきちんとやる人だと思っていたのに、そうではなかったと知りショックを受けた」と言っていました。友人に相談すると保健所へ行った方がいいと言われ、すぐに保健所へ行き専門病院を紹介されたそうです。そんな妻に「病院へ行こう」と言われ、覚悟を決めました。

私は依存症に関する知識などまるでなかったので、病院へ行ったら脳を手術されるのではないかと怖れていましたが、実際は全然違い、ホッとしたことを覚えています。依存症の説明をしてくれた医師に、「もし酒ではなく水だったら、あんなに飲めなかったでしょう? これはコントロール障害なんです」と言われたとき、自分の状態に納得がいきました。飲みたいと思うと我慢ができず、酒が最優先になってしまう理由はそれなんだとわかったのです。

また、集団治療療法でケースワーカーに言われた「皆さんにどれだけの人が関わっているか知ってください。たとえ単身の人であっても、少なくとも医師、看護師、ケースワーカーが関わっているんですよ」という言葉も、胸に響きました。それだけの人が自分のことを思ってくれているということ。こんなことをしでかした自分でも、人として治療するに値し、よくなることができるのだという安堵のような希望を感じさせてくれたのです。

私の当面の治療は、抗酒剤を飲みながら毎日通院し、断酒会に通うことでした。言われたことを欠かさずやり、空いている時間は家事や共働きの妻に頼まれた用事をしました。本当は断酒会へは行きたくなかったのですが、ケースワーカーに紹介状を持たされたので、自分へのペナルティのつもりでした。そうして1ヵ月ほど経つと、少し落ち着いてきて、「この先どんな生活になるのか、手に職もないしどうしたらいいんだろう」と悩むようになりました。

そんなときです。妻から「もう一度社長に会って来なさいよ」と勧められました。まず頭をよぎったのは、「せっかく酒をやめたのに、街に働きに行くようになったら、また飲んでしまうかもしれない」という考えでした。酒は止まっていても、いつも飲んでいた地域へ行くと思っただけで、不安に襲われたのです。妻はそんな私に発破をかけるように、「それで飲むんだったら、一生家で皿洗いをしていなさい」と言い、私は悩んだ挙句、思い切って新たな一歩を踏み出すことにしました。

社長に会い、「どんな仕事でもいいです。給料はいくらでもよいので、どうぞ使ってください」と頭を下げました。社長は「君がこうなったのも、20代の頃によく飲みに連れて行った俺にも責任がある。同じ仕事は与えられないが、これからはみんなの『銃後の守り』をしてもらおう」と言ってくれ、一週間後に事務職として復帰できることになりました。実はこのスムーズな展開の裏には、私の復帰をあらかじめ社長に頼みに行った妻の努力があったと知ったのは、何年も経ってからでした。

幾度かの危機を乗り越えて

復帰後も、最初は毎日クリニックに通いました。職場では人の目が気になったし、取引先からの電話を受けたときの受け答えもつらかったです。電車に乗っていても、街を歩いていても、まるで自分が身包みはがされ皮膚一枚で歩いているような心もとなさがあり、酔いもなく素のまま社会にいることがこんなに心細いとは思いませんでした。

そんな中、役に立ったのは、毎朝の抗酒剤でした。抗酒剤を飲むと、「今日は飲まない」という気持ちを補強してくれました。医師の指導のもと、抗酒薬は2ヵ月ほどで中止し、その代わりに断酒会に参加するようになりました。通院と断酒会の頻度を逆転させ、ほぼ毎日例会に行くようになり、「仕事・断酒会・家庭」という新しいバランスで生活のリズムができていきました。

といっても、危なかったことが何回かありました。断酒5ヵ月の頃でした。仕事の後に例会がない日、ふと以前の行きつけの飲み屋にカラオケを歌いに行こうかなと思ったのです。ウーロン茶を飲んで歌って帰ればいいんだと考え、店まで行くと、ドアに「一週間休みます」と貼り紙があり、助かりました。また同じ頃、診察後に病院のバスに乗り遅れ、腹を立てながら市バスの停留所へ歩いて行ったことがあります。それまで気にしていなかったのですが、近くに自動販売機があり、目に入った瞬間、釘付けになりました。幸いにもすぐにバスが来て、買うことはなかったのですが、大丈夫だと思っていても危機があるのだと学びました。

酒をやめるのは「目的」ではなく、第2の人生を歩むための手段でした。

断酒18年になり、職場には飲んでいた頃の自分を知らない人の方がずっと多くなりました。酒をやめてよかったことは数え切れないほどありますが、今も妻と一緒にいられること、そして断酒会を通し人間関係が広がったことがいちばんありがたいと感じています。

回復のカギ
●「底つき」体験
●抗酒剤
●妻の陰ながらの支え

※写真は本文とは関係ありません