回復のカギ
「飲んで喧嘩ばかりする両親のようにはならない」と思っていたのに、気づいたら同じ泥沼の夫婦関係になっていた。
M・N 断酒12年(女性・52歳・施設勤務)
あれほど嫌っていた親と同じ酔い方になっていく
私はアルコール依存症家庭で育ったので、酒の臭いや味が大嫌いでした。十代の頃は、両親が飲んで喧嘩するのが嫌で、何度も家出をしたものです。そんな私を心配した両親は、ますます飲んで言い争い、私はますます反抗して、非行に手を染めていきました。
20歳で結婚し、翌年、上の子が生まれたときは、初めて本当の幸せを味わったような気持ちでした。ところが夫はパチンコにのめり込み、なかなか定職につこうとしませんでした。そんな中、父が亡くなり、どうしようもない淋しさに襲われるようになりました。私が酒を飲むようになったのは、それからです。
飲むと何もかもを忘れられる気がしました。イライラも不満も、どうでもよくなるような気がしました。けれども父のような酔い方になるまで、そんなに時間はかからなかったように思います。結局は酔った勢いで、くどくどと不満をぶつけるのです。夫も飲む人なので、酔っ払い同士派手な夫婦喧嘩を繰り返すようになり、いつしかまるで両親のような夫婦になっていました。
酒が切れると手が震えるようになり、夫と義姉に無理やり精神病院へ連れて行かれたのは36歳のときでした。二人が「これは遺伝だから」と話しているのを聞き、猛烈に腹が立ったことを覚えています。夫だって酒を飲むし借金もたくさん抱えているのに、私だけが悪者にされただけでなく、私の両親のことまでバカにされた気がしたのです。
最初の入院は、結局、夫たちに家に連れ戻される形ですぐに終わりました。入院しているのが男性ばかりだったので、「こんなところへは置いて置けない」と言い出したのです。そこからが、本当の地獄でした。
入退院を繰り返した泥沼の4年間
私自身も、「酒なんか自分の力でやめられる」と思っていました。けれども頭の中は酒のことでいっぱいでした。家では飲めないので、病院で知り合った男性の家に行って飲むようになり、ブラックアウトするまで飲んで目覚めたら朝という感じで、下の子の幼稚園の送り迎えもできない有様。夫婦喧嘩の末、離婚届けに判を押して出て行ったのですが、子どもたちのことが心配で頭を下げて家に戻り、それから4回入院することになりました。
依存症は飲めば飲むほど進行する病で、特に女性は男性より短い期間で病気が進むと言われます。本当にその通りだと思います。2回目の入院から、幻聴や幻視などの離脱症状が出るようになりました。病室のカーテンが揺れると人が立っているように見えたり、天井の模様が無数の目に見えたりするのです。それでも体が元気になってくると、「こんなことをしている場合ではない。子どもたちの世話をしなきゃ」「酒なんてやめられる」という考えが出てきて、勝手に退院してしまうのでした。
しばらくは飲まないでいられても、いったん飲み始めると前よりもっとひどい症状になりました。やがて私が飲み始めると上の子が財布を隠すようになり、子どもの貯金箱を壊して酒を買いに行ったこともあります。そんな自分が情けなく、睡眠薬を大量に飲んで死のうとしたり、夫に暴力を振るわれたりして何度も救急車を呼びました。
自分ではもうどうにもできず、4回目の入院をしたのは40歳のときです。初めて3ヵ月のプログラムをきちんと受けました。最初の日に、医師に言われた言葉は忘れられません。「あなたは夫と別れなければ酒をやめられません。こんな状態の中で育つ子どもたちが、どうなるかわかりますか?」。ケースワーカーにも「ちゃんと離婚届けを出さないと入院はさせません」と言われ、ただ涙が溢れました。目の奥に浮かぶ子どもたちの姿は、かつての私の姿でもあったのです。
生活を丸ごと変えることが必要だった
子どもの頃、両親が飲んで争う姿を見て傷ついてきたのに、なぜ自分も同じことを繰り返してしまったのか。喧嘩ばかりをするのに、なぜお互い別れなかったのか。
もともと夫婦仲が悪かったのではなく、二人とも酔うから喧嘩がひどくなっていったのだと気づいたのは、ずっと後になってからです。お互い、相手を嫌に思うところはあったけれど、酒が入らなければ、話し合えた部分もあったろうし、もっと早く離婚という結論に達したのではないかと思います。それができず、酔って喧嘩をするたび恨みがたまり、それを忘れようと飲めば飲むほど酒にとらわれていったのです。私は反抗期の子どものまま、成長が止まっていたのでしょう。本当は甘えたいのに、正反対のことしか言えず、相手を困らせることでしか表現できなかったのだと今はわかります。
入院中は、週2回の自助グループに必死に通いました。医師に「自助グループに行かないと退院させない」と言われていたので、最初はとにかく早く退院して子どもたちに会いたい一心でした。けれども離婚が成立し、子どもたちは夫方に引き取られ、私は生活保護を受け入院する中で、だんだんと自分の状況が見えるようになっていきました。また飲んだら、今度こそ本当に子どもたちとは二度と会えないと思うと、そのためなら何でもしようという気持ちになっていったのです。
退院後、アパートで初めての一人暮らしを始めたときは、人恋しくてたまりませんでした。毎日デイケアに通い、昼と夜に自助グループに参加し、仲間に助けてもらうことができたから、何とか乗り切ることができたと思います。また、元夫は私の名義で借金をしていたので、福祉事務所の人に相談し、断酒一年目に自己破産をしました。私の場合、こんなふうに新しい生活の枠組みを整えていったことが、断酒継続の基盤になりました。
断酒2年目にはヘルパーの資格を取って、現在の会社に入り、5年目に正社員になりました。自助グループでは、酒をやめた日を新しい誕生日と考えるのですが、2年目のバースデーのことを思い出します。上の子をミーティングに誘ったら、来てくれたのです。あんなにつらい思いをさせたのに、「前のお母さんに戻ったみたい。飲まないで元気でいてね」と言ってくれ、それが新しい生活を続けていく大きな励みになりました。
上の子とは、それから連絡を取り合うようになり、数年後に下の子とも再会することができました。酒をやめて12年。子どもたちに申し訳ないと思う気持ちは常にありますが、かつては想像もできなかったような穏やかな日々があります。実は上の子が20歳になったとき、私は同じ自助グループの仲間と再婚しました。複雑な思いはありましたが、もう一度やり直してみようと思ったのです。自分のこともしっかり見られない人間が、傷つけた人たちに何を償えるだろう? まずは自分が幸せになることだ、そこから始めよう、と。今も仕事と自助グループを基本としたシンプルな生活ですが、以前より自分に自信が持てるようになり、前向きに生きることができています。
- 回復のカギ
- ●子どもへの思い
- ●断酒仲間との再婚
- ●自助グループへの参加
※写真は本文とは関係ありません