回復のカギ

高3のとき、酒と処方薬でストレスから逃げることを覚え、24歳で依存症と診断。最初は意地でやめていたけれど……

M・K 断酒14年(男性・38歳・病院勤務)

大学入試の直前に母が入院。そのダメージから酒と処方薬へ

初めて酒を飲んだのは、14歳のときです。祖父の葬式で親戚に「おまえも飲め」と言われ、飲んで帰宅したら胃の辺りが猛烈に痛くなり、急性すい炎になりました。それからはもう二度と酒なんか飲むかと思っていましたが、あることをきっかけに酒にのめり込むようになりました。

大学入試を控えた高校3年のときでした。ある朝、母が突然ノイローゼ状態になって、いつもと違う形相で「殺される! 助けて!」と言いながら部屋に入ってきたのです。その前日まで普通だったのに、何が起きてしまったのか。今考えると、当時、母は職場で大変なストレスを抱えていて、更年期障害の影響もあり不安定になっていたのだと思いますが、当時そんなことはわからず、ただただショックでした。

母はすぐに救急車で運ばれ、精神科病院に3ヵ月入院し、その後、本当に何事もなかったように以前の母に戻りました。けれどもあの日の衝撃とその後の不安な日々は、僕の中に暗い影を落としました。当時、世の中ではバブルが崩壊し、自殺のニュースがよく報道されていました。大学入試の競争率も激しく、気持ちが落ち込んで毎日死ぬことを考えるようになりました。受験勉強も手につかず、苦しくて、通りすがりの精神科に受診し、精神安定剤や抗うつ剤、睡眠薬を処方され、それを酒と一緒に飲むようになったのです。

酒と処方薬を一緒に飲むと、ボーっとして、字もまともに追うことができなくなります。そんな調子だったので、結局、受験勉強はできず、入試は失敗しました。予備校に通ったものの、酒と処方薬を飲みながらの生活で、二年目も失敗し、三年目でようやく保育科の短大に合格しました。

就職した2ヵ月後に事故に合い、酒浸りの日々になった

保育士を目指したのは、二浪していた時代に、たまたま近所の子どもをあやしていたのを見たお母さんに、「あなたはきっと保育士が合うわよ」と言われたことがきっかけでした。保育士の仕事を見てみたいと思い、その子どもが通う保育園へ見学に行き、働いていた保育士さんに憧れを持つようになりました。

ところが大学では、苦手なこともしなければなりません。特にピアノの授業が大変でした。講師は失敗をすると手を叩く人で、それに反発し、嫌気から目標を見失いかけました。そんなときつき合っていた彼女に振られ、自暴自棄になり朝から飲むようになりました。

僕は、酒や処方薬でストレスから逃れる方法を覚えてしまったのだと思います。卒業後は保育士として就職したものの、女性の多い職場で感覚も違うし、仕事のやり方もわからないことだらけで、失敗したらどうしようと思うと怖くて仕事中も酒が欲しくなりました。出勤途中にコンビに寄り、350mlの缶ビールを買って更衣室に隠しておくのです。

しかしそんな生活も、2ヵ月で終わりました。バイクで出勤途中に車の巻き込み事故に合ってしまい、療養生活を送り、結局そのまま退職することになったのです。

療養生活の間、酒びたりの生活になりました。昼間から部屋で酒と処方薬を飲んで寝る僕に対し、父は「そんなことでどうするんだ!」と怒りました。夕飯の時間になると呼ばれるのですが、酒でおなかがいっぱいで「食べられない」というと「酒ばっか飲んでるからだ!とぶたれたこともありました。嫌気がさして、自分の不幸を呪いました。高校時代の同級生は銀行員やいい企業の会社員になっているのに、自分は三浪し、就職も大変な思いをして探した。けれども職場は大変だし、給料も安いし、あげくに事故に巻き込まれ、こんな事態になってしまった。何で自分にはこんな不運ばかり起きるのか、と。人のことばかりに目が行き、自分と比較しては落ち込み、この人生を何とかしたいとあれこれ考えました。

仕事をしなければと営業の職につきましたが、1ヵ月と持ちませんでした。大学時代に経験のあった新聞配達の仕事ならできるのではと思い始めましたが、2週間持ちませんでした。このままではダメだ……。そう思い、両親に「病院に入院したい」と打ち明けました。かつて母が入院した病院へ行き、アルコール依存症と診断されたときは、やっぱりそうかと思いました。当時、24歳。3ヵ月の入院プログラムを受けることになりました。

「第二の人生を生きろ」というソーシャルワーカーの言葉

医師には「こんなに若くて、こんなに飲んでどうするんだ」と言われました。「若いから重症だ」とも。同じ入院患者は自分よりずっと年上の人ばかりで、「若いからやめられない」と言われ、最初は心の中で猛反発しました。1ヵ月の基礎プログラムを終えると外出して自助グループに参加できたので、病院にいたくなくて積極的に自助グループに参加しました。けれどもそのおかげで、自助グループの人に「入院中からこれだけ参加した人はおまえしか見たことがない」と言われ、うれしかったし、行けば「よう来たな」「また来いや」と言ってもらえたので、自助グループに通うことを基本にした生活ができてきました。同じように熱心に自助グループに参加していた入院仲間がいたことも、励みになりました。

それでも、「自分はこの人たちほど重症じゃないし、酒はやめられる」という気持ちが心のどこかにありました。もしかしてかなり重症なのかなと感じたのは、退院後、仕事を始めてからでした。依存症のことを隠して入社したものの、夜の断酒会へも行けず、つらくて1ヵ月でやめました。またその頃、二浪時代からコーチをしていた小学校サッカーチームのお別れ会があり、親御さんに酒を勧められ、「飲めない」と言って依存症のことを説明すると、「一生飲めないなんて、そんな病気があるもんか。飲めないなら出ていけ」と返され、悔しくて涙が出ました。

酒をやめ続けていくというのは大変なことなんだと実感すると共に、「俺は絶対にやめてやる」と改めて心に誓いました。何のために酒をやめ続けるのかという目標が見えず、半ば意地になっていたと思います。そんなとき、通院を始めた病院のソーシャルワーカーの人に言われた言葉は今も忘れられません。僕が「死にたくないから酒をやめ続けます」と言ったら、「死にたくないぐらいで酒をやめるんだったら、飲んで死んだらいい。どうせ人はみな死ぬんだから」と返され、思わず「どうやって酒をやめ続けていけばいいでしょう?」と聞きました。すると「第2の人生を生きなさい。そのうえで、酒もやめ続けなさい。あなたは若いから、そうすれば何かこの世に残せるよ」と言ってくれたのです。

酒をやめるのは「目的」ではなく、第2の人生を歩むための手段でした。

僕はその後、就職面接で「僕はアルコール依存症で、断酒会に通えないと仕事ができません」と伝え、無事次の職につくことができました。それから、精神保健福祉士、介護福祉士、ケアマネジャーの資格を取り、今は病院の居宅事業所に勤務しています。もし依存症になっていなかったら、これまで出会ってきた人とも会うことはなく、今の自分もなかったでしょう。浪人時代を今振り返ると、酒を飲んでいなかったら本当に自殺していたかもしれません。この病気になってよかったとまではまだ言えないですが、病気と認めたあのときの自分自身には感謝しています。飲んでいたときも、やめてからも、病気に助けられてここまできた部分があったと、今、改めて思い返しています。

回復のカギ
●入院生活
●自助グループ
●ソーシャルワーカーの言葉

※写真は本文とは関係ありません

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