回復のカギ

度重なる職場の出勤停止に妻子が家を出たことも。高級志向の酒飲みだったのに、いつしかワンカップを手放せず……

K・H 断酒29年(男性・74歳・元化学系企業社員)

今思えば若年者依存症だった

酒をやめて30年近くになります。今の穏やかな生活があるのは、酒をやめたおかげです。けれどもアルコール依存症に苦しんでいた頃は、酒をやめられるとは夢にも思っていませんでした。

私は若い頃から酒が好きでした。大学へは推薦(スポーツ=テニス)で入学しました。大学1年のとき、テニス部の忘年会で無礼講をいいことに、強要されたのではなく自分の意思で大量飲酒し急性アルコール中毒になったこともあります。またある日、飲みすぎて胃が猛烈に痛くなり、病院に運ばれ胃穿孔かもしれないと言われたこともあります。今考えると何て危ない飲み方をしていたのだろうと思いますし、若くしてアルコール依存症の域に達していたと思いますが、当時は気にもしていなかったし、少々飲みすぎても翌日にはテニスで汗を流せば酒が消えていたのでした。

大学卒業後は地元の有名企業にテニスをしていたお陰で特別推薦のようなかたちで入社がかないましたが、今思うと、このことや、大学への推薦入学などを含め他人が何とかしてくれるという甘えの構造というか依存性の体質ができあがっていったのだと思います。

就職後も相変わらずよく飲んでいましたが、テニスで国体にも出場しました。酒の量がより増えていったのは、テニスをやめてからです。東京に転勤になり、先輩と一緒に高級クラブやバーをはしごしましたし、営業職でしたので接待費も随分と使いました。30歳のとき社内恋愛で結婚をし、二人の子どもも生まれましたが、外で飲み歩く生活は変わりませんでした。自分は酒に強いと思っていたし、まさか酒で人生を壊しているとは思ってもいなかったのです。

35歳を過ぎた頃から歯車が狂いだす

ところが再び転勤で地元に戻った35歳くらいから、だんだん歯車が狂ってきました。潜アルコール依存症が顕在化しはじめ仕事にも支障が出てきたのです。ちょっとしたミスを繰り返すようになり、毎月参加していた本社の販促会議でも「酒の臭いがしている奴をよこすな」と言われ、メンバーから外されてしまいました。「なぜ酒が好きなだけで外されるのか?」と憤りました。飲まなければ仕事もできない状態だったのに、そのことがどうしても認められなかったのです。その頃職場でアルコール性てんかんを起こし倒れたことが一度ならず二、三度ありました。

ついにある日、人事から「酒を飲んで仕事をしていると迷惑だ。給料はやるから3ヵ月来ないでくれ」と言われ、出勤停止となりました。

体がきついので、仕事の帰りに点滴を打ってもらっていた内科医に「酒をやめる気はないですか?」と精神病院を紹介され、「行きます」と答えている自分がいました。酒をやめたい、でもやめることができない――。それが本音でした。

「酒をやめたい、でもやめられない」という苦しみの中で

耐えに耐えていた女房もしびれを切らし、ついに子どもを連れて家を出て行ってしまいました。その後は病院を出たり入ったりし、通算3年くらいは傷病手当をもらい精神病院に入院していたと思います。しかし当時は依存症の専門治療がなく、閉鎖病棟に隔離されていただけの状態ですから無為な3年間でした。

こんな状態を続けているうちに脳萎縮が始まったのでしょう、羞恥心がどんどんなくなっていきました。「酒を飲んでどこが悪い」「精神病院に入ってどこが悪い」と思って酒を飲むことで、自分の恥ずかしいと思う気持ちをかき消していたのだと思います。

今でも忘れられない光景があります。ある日、病院から外泊で家に帰ると、当時小学生だった息子がしょぼんとした姿で玄関の前に立っていました。私の顔を見て逃げ出す息子を必死で追いかけ、バス停の前で500円玉を渡して「気をつけて帰れ」と言うのが精一杯でした。この子のために酒をやめよう……。なくしかけていた羞恥心がわずかに芽生えました。けれども泣きながらそう思った涙が乾かないうちに酒屋へ走っていました。やめたくてもやめられない相反する心と身体、正にこれがアルコール依存症の正体だと思います。

その後、妻は「片親の子にしたくない」と言って子どもたちを連れ、家に帰ってきました。けれども酒は止まらず、義兄の紹介で断酒会につながっても、しばらくは飲んで行く状態でした。初めて希望のようなものを感じたのは、見かねた断酒会の人に勧めで高知の断酒学校に参加したことです。いろいろな人の体験発表を聞き、「こんな人でも酒がやめられるんだ」と衝撃を受け感動ももらいました。衝撃も感動も半年しか持ちませんでしたが、私にとっては酒の無い生活の最長記録であり、このことが断酒人生のスタートであったと言っても過言ではないと思っています。

酒によって奪われていた人間性を取り戻す

最後の入院は、45歳のときでした。それ以来、私は一滴も酒を飲んでいません。そのきっかけとなったのは、羞恥心が蘇ったことでした。これまでの経験ですと退院と同時に飲酒欲求が必ず沸いていました。ところが不思議なことに、最後の入院先から退院した日、病院の玄関を出た瞬間に、猛烈な羞恥心に襲われたのです。俺は何という人生を送ってきたんだ、何という無様な生き様なのか、と。

私はあのとき、初めて自分の現実に向き合ったのだと思います。それからは、妻と子どもたちの協力を得て、仕事の後に断酒会に通う毎日でした。実は最後の入院のとき、会社からは「次に飲んだらクビだ」と言われ、白紙委任の退職願も提出していましたが会社の温情もあって会社に残れることになったのです。

こんな自分を見捨てずにいてくれたことに感謝する気持ちも、断酒を続ける励みになりました。ただ、問題を起こすまでの私は管理職の端くれにいましたので、同期の人や後輩たちが次々と昇格していくのを見て「俺も酒さえ飲まなければ」と悔いたり焦ったりしました。気にならなくなったのは5年目あたりから。断酒会の中で話すうち、それまで自分がしてきたことを受け入れられるようになっていったからです。アルコール依存症を心底から認めるということが、こんなに気持ちを楽にさせてくれるのかと自分でも驚きました。逆に言えば、認めるまでに5年かかったということです。

その後、私は定年まで勤め上げ、今は孫の世話やテニスをしながら穏やかな生活を送っています。何の問題もなく成長してくれた二人の子どもには感謝の気持ちでいっぱいですが、私自身子どもに対する負い目というか罪悪感がいくらか残っています。子どもとの間に何か薄皮が一枚挟まっているようなぎこちなさがありますが、まあ、こういう生活もあっていいかと自分で自分を納得させています。焦らず、がんばらず。

回復のカギ
●家族の変化
●仲間の体験談
●職場復帰

※写真は本文とは関係ありません

男性版の一覧へもどる