介入のカギ

幻視や見当識障害は、アルコールの後期離脱症状だった! 夫を治療につなげるまでの怒涛の9日間。

Y・T(妻・45歳)

脱水症状で救急車を呼ぶ

今から6年前、夫は2回の連続飲酒*に陥り、あちこち病院をめぐった挙句、アルコール依存症と診断されました。わずか4ヵ月の間の出来事ですが、本当に大変な日々でした。

そもそもおかしいなと思い始めたのは、その2年ほど前からでした。夫はもともと酒好きですが、毎晩深酒をするというより週末に飲み溜めをするタイプで、酔って暴言を吐くこともない人でした。私たちは子どもがいないので、週末はよく2人で温泉に行って楽しんでいましたが、だんだんとおかしなことが起こるようになったのです。夫が持ってくるペットボトルが、ウーロン茶なのに中身がウイスキーだったり、ミネラルウォーターなのに日本酒だったり。夫いわく「ホテルの酒は高いのです」とのことで、最初は黙認していましたが、結局、ホテルに到着する前にぐでんぐでんになってしまうことが続いたのです。移動中も、よれて人にぶつかったり、階段から落ちそうになったり。一緒に歩いていても、いつもはらはらどきどきで、2人でいても心が休まるということはなくなっていました。

今、考えると、そうなるずっと前から酒量は少しずつ増えていました。私自身、本当に病気に対して無知だったと思います。夫は不動産関係の職に就いていましたが、30代で事務畑から営業部長に昇進し、接待で飲酒の機会が増えただけでなく、その後リゾートホテルの支配人になり、激務をこなす日々でした。自分より他人を優先する我慢強い人なので、ストレスを溜め込む中、時間をかけて依存症になっていったのだと思います。けれども当時、私は依存症という病気があることすら知らなかったので、だんだんと「この人は酒をコントロールできないだらしない人なんだ」と思うようになっていきました。そして6年前のゴールデンウィーク、夫はついに連続飲酒になったのです。

連休が終わっても、仕事に行ける状態ではありませんでした。ずるずると休み、昼間からテレビの前で飲んでは寝てを繰り返すのです。私は苛立ちましたが、言葉を荒げるのは嫌なので、言いたいことをぐっと我慢する日々でした。5月の終わりになって、夫はようやく「仕事に行く」と会社に出かけて行きましたが、その頃には、よれよれと這うようにして家を出て行く夫を見ても何の感情もわかないくらい、心が冷え切っていました。

そして7月の連休明けから、また会社を休むようになりました。ベッドの脇にかけてあるスーツのすべての両ポケットに、日本酒のパックが3つずつ入っていて、それがなくなると買いに行き、飲んでまた買いに行き……。2回目の連続飲酒に突入したのです。

その年は猛暑で、エアコンのない部屋で飲んでいた夫は脱水症状を起こしていました。動かなくなり、心配になって「冷房のある部屋で休んでください」と言っても「嫌だ」と拒むのです。大きな体の夫を私が一人で動かすことはできない。心配と怒りは頂点に達し、ついに「どうして動けないの!」と叫んで夫のことを叩いてしまいました。まさか自分がこんなことをするなんて、衝撃でした。けれどもさらに衝撃だったのは、夫の反応です。「なぜ飲んでしまうんだ!!」と言って壁に頭を叩きつけ、ももを拳で内出血するまで叩きだしたのです。私がこれ以上何か一言でも言葉を発して、もっとひどいことになるのが怖くて、おさまるのをただ黙って見ていることしかできませんでした。

それから3日間は、時間の経過もよくわからないほど、どん底の状態でした。夫は飲んでいびきをかいて寝て、酒を買いに行ってまた飲んで寝るだけ。私は夫といるのが苦痛なのに、かと言って家から一歩も出ることができず、夜もまともに眠れずトイレの前の狭い空間で膝を抱えていることしかできなかったのです。

その日、浅い眠りを妨げたのは、ガチャガチャという妙な金属音でした。時計を見ると、まだ6時前。夫はベッドにいません。誰かが外から玄関を開けようとしている音だと気づき、恐る恐る玄関穴からのぞくと黒いものが見えました。思い切って、チェーンをつけて開けると、それはドアノブをつかんでうずくまっている夫だったのです。「どうしたんですか!」と聞くと、「死に場所を探してた」と。「でも近所の人に迷惑をかけるし、死に切れなかった」と。急いで抱き抱えて家の中に入れ、救急車を呼びました。このままじゃダメだという一心でしたが、どう伝えたらいいかわからず、とっさに「熱中症で夫が倒れています」と言っていました。それから夫がアルコール依存症と診断されるまでの9日間は、まさに怒涛の日々でした。

*飲酒への欲望が抑えられず、食事も摂らずに飲み続けること。

下駄箱の上の水戸黄門

救急隊員は、なんと30分ほどで帰ってしまいました。夫が「どうしてだか動けなくて会社に行けない」と訴えたうえ、症状が熱中症とは違ったからです。救急隊員からは、「心の病気では救急搬送出来ないんですよ。何も食べていないようなのでおかゆか味噌汁でも食べさせてください。また同じようなことが起きたら東京消防庁の緊急通報連絡相談(ひまわりダイヤル)へ電話してください」と告げられ、夫と2人、家に取り残されてしまったのでした。

言われた通り夫におかゆを食べさせても、2週間まったく食べていなかったので、すぐに吐き出してしまう状態でした。呆然としたまま主治医のいる内科が開くのを待って、タクシーで夫を連れて行きました。ところが入院できてホッとしたのもつかの間、3日後に脱走してしまったのです。夫から電話があり、「会社に着て行くスーツがないので、今から取り帰ります」と言われ、驚きました。慌てて駅の近くへ迎えに行くと、明らかに変で、「病院に戻りましょう」と言っても意味がわからないようで、主治医の名前も覚えていないのです。

今でこそそれは、アルコールを断ってから2~3日後に出現する、アルコールの後期離脱症状だったとわかります。幻視や見当識障害、興奮などの症状が起きることを当時は知らなかったので、何が起きているのかわからず本当に怖かったです。

ここで夫が「会社に行く」と言い出したり暴れたりしたら困ると思い、何とかなだめすかして内科に連れて行こうと夫の気をそらせました。図書館のフリースペースでおしゃべりをしたり、夫のお気に入りのレストランまで行ってランチを食べたり。必死で夫の気を紛らせながら、少しずつ内科に近づいて行ったのです。ところがそんな思いで到着しても、再入院はできず、熱中症は治ったという理由で丁重に断わられてしまいました。夫は「ベッドの上に何かいる」「なぜ俺はここにいるんだ」と言う状態で、すがる思いで医師に「どうしたら、どこへ行けばいいんでしょうか。ここにいさせてください」と頼むと、3つの医療機関宛てに紹介状を書いてくれました。それが後々、役に立ちます。

夫を連れて病院を後にしたものの、途方に暮れました。辺りはもう暗くなっていて、とりあえずご飯を食べれば何か思いつくかもしれないと思い、中華料理屋へ入りました。夫は「ビールを一杯飲んでもいい?」と言ってきて、刺激するのが怖くて承諾しました。小さなグラスに一杯飲んだ後、「もう一杯だけ」と言われ、それも承諾しました。帰宅後、「明日から会社へ行く」と言うので、調子を合わせてスーツを着てもらいました。ぶかぶかになるほどやせ細っていることに気づけば、正気になるかもしれないと思ったからです。ところが、「これもぶかぶかですね。捨ててしまいましょう」とやっているうちに、突然、夫が後ろにバタンと倒れたのです。それが私の恐怖の頂点でした。

夫が生きていることを確認した後、「寝てください」と言って玄関に近い部屋の布団に何とか運びましたが、「サンダルのかかとが犬の顔に見える」「下駄箱の上に水戸黄門がいてアヒルが目をつついている」「近くにうっかり八兵衛と月亭可朝もいる」と言うのです。そしてようやく寝てくれたと思ったら、今度はいきなりガバッと起きて、玄関を突き破る勢いで外に出て行ってしまったのです。

ものすごいスピードで歩く夫を慌てて追いかけましたが、「来るな!」と怒鳴られました。そんな怖い夫は見たことがなく、まるで別人でした。電柱に隠れながら夫を追い続け、着いた先は酒の自動販売機です。これはまずいと思い、ビールを飲もうとする夫を止めに入ると、夫はすごく悲しそうな顔をしました。後々聞いたら、飲まなければ死ぬと感じていたそうです。その顔を見たら、取り上げられなくなりました。「一緒に飲みましょう」と言って、夫に見えないように中身を捨てながら、替わりばんこに飲みました。そして、もう私には無理だ、この人をどうにもすることはできないと悟ったのです。

お願い! 私たちを置いて行かないで!

夜中に母に電話をし、助けを求めると、母は驚いて翌朝いちばんで来ると約束してくれました。その朝、4時くらいだったと思います。夫が「腰が立たない。会社に行けない」と言ってきたのです。「どうしましょう」と聞くと、「救急車を呼んだ方がいいかも」と言うので、前に救急隊員に聞いたひまわりダイヤルに電話しました。前のように断わられたら困るので「倒れて後頭部を打ちました」と強調し、「CTが必要ですね」と言われてホッとしたことを覚えています。ところが救急車が到着しても、今度は受け入れ先が決まらず2時間待つことになりました。

「どこか受け入れ先に心当たりは?」と救急隊員に聞かれました。思い出して内科でもらった紹介状を見せると「診断書の封を開けて病名を読んでみてください」と言われました。そこに、「うつ病疑い、アルコール依存状態」と書いてあったのです。といっても、それですぐに受け入れ先が決まったわけではありません。救急隊員が紹介状を書いてくれた内科やその他の病院に連絡してくれましたが、どこも受け入れはしてもらえず、やっと見つかった病院では「CTだけなら撮る」とのこと。それを頼みの綱にしましたが、搬送された病院では、本当にCTを撮っただけで終わってしまいました。

それでも頭を切り替え、その足でタクシーに乗って前に紹介状を書いてもらった病院に行きました。けれども初診は予約が1ヵ月待ちの状態で、受け付けてもらえませんでした。途方に暮れてバスに乗り、保健所に聞いてみようと思いついて電話をしても、「アルコール依存症の病院のことはわかりません!インターネットでお調べください!」と言われただけ。それでも近くに総合病院があったことを思い出し、行ってみましたが、結局、診てはもらえず、日が暮れました。

「今度飲んだら、2年で死にます」

事態が動き出したのは、翌々日の親族会議でした。母と弟が来てくれ、インターネットでアルコール依存症の病院を探したのですが、夫は治療を受け入れず、こうなったら義姉に来てもらうしかないと決めて呼びました。夫は抵抗しましたが、私も「このままだと死んでしまう。たとえ生きていても人間同士として話ができなくなる」と自分の気持ちを伝えました。夫はしぶしぶ「わかりました」と了解し、専門病院で2日後の予約がとれました。診察の前夜になって夫が予約を取り消したことが発覚し、義姉が朝いちばんで飛んで来るなどハプニングはありましたが、病院に連絡をしたら予定通り受け入れてくれて、ついに夫は専門病院につながったのです。

アセスメントで看護師が言った「アルコール依存症では、内臓に影響が出る人と脳に影響が出る人がいますが、あなたの場合は脳です。しかも相当重症です」という言葉は、とてもインパクトがありました。しかも入院した場合の治療の流れを丁寧に説明してくれただけでなく、夫が入院を拒むと「では通院を」と言ってその場で系列のクリニックに電話をして、いとも簡単に2日後の予約を取ってくれました。

クリニックでは、医師から決定打を受けました。「病院ですることは何もありません。後はシラフの生き方を自助グループで教えてもらってください。昼間はここに通い、夜は自助グループに通う。今度飲んだら、2年で死にます」と言われたのです。最初は、やっとの思いで専門治療につながったのに、これだけなの!?嘘でしょう!?何もしてくれないの!? と衝撃を受けました。けれども夫には、逆にそれがよかったのです。誰も何もしてくれない病気なんだとわかり、自分が何とかせねばという気になったのでした。

ミーティングのことを質問すると、精神保健福祉士の人が自助グループの冊子をくれて、まずはその足で私一人で事務所に行きました。「気がついてよかったね!でも一生続くんだよ。だから今日一日。とりあえず1年やってみて。家にいちゃだめ。毎日ミーティングに通ってね」と励まされ、ミーティング一覧をもらいました。4日後、偶然近所で開催されていたアルコール依存症者の自助グループのセミナーに2人で行って、実際にお酒をやめている人たちの話を聞いて、温かく自己紹介されて。ここは信じられる……そう思える感覚が芽生えました。その日をきっかけに、ミーティング通いがスタートしました。

初めて2人でミーティング会場に行ったときのことは、忘れられません。夫は時間前に着いていないと不安なタイプなので、夜7時からなのに6時に会場の教会についてしまいました。何か立て看板でもあるかと思っていたら、何もなく、ベンチに座って時間をつぶしながら「本当にここでいいのかな」と話していました。人が通ったときたずねたかったのですが、何と説明して聞いたらいいのかわからず、聞けなかったことを覚えています。時間になって、建物に入ると中は真っ暗で、ますます不安になりました。すると廊下の先に、一筋の光が見えて、部屋から人が出てきました。今思うとトイレに出たのだと思うのですが、その人に恐る恐る「ここはアルコールの…」と聞くと、そうだと答えてくれました。中は思いのほか広く、落ち着いた雰囲気でミーティングをしていました。

共通の話題が増えたことで

実はその後、私は体調を崩し、1週間ほど入院しました。恐れと緊張で気が張り詰めて睡眠不足が続いており、限界でした。けれども、それが私にとってのターニングポイントになりました。自分にもサポートが必要だとわかったのです。退院後、夫の会社から「今後のことを相談したい」と連絡があり、私が夫に代わって復職スケジュールを立てたことを医師に指摘されたことも、後押しになりました。夫の診察について行き、私が横から入って復職スケジュールを説明し出すと、医師がなんとも言えない表情をして、「こういうものをご自分でお書きになれない方が、仕事に復帰できると思いますか?」と言ったのです。そのとき、あぁ、これは私のすることじゃないんだとわかりました。

以来、夫の診察について行くのをやめました。夫のことは、夫に任せよう。私は私のことをするのだ、と。私は自分のために、家族のための12ステップグループに参加するようになりました。夫はと言えば、夜は自助グループを続けましたが、昼間のデイケアはすぐにやめてしまいました。「午前中のミーティングだけ出て、午後は図書館で過ごす」と自分なりの行動計画を立てて、医師に直談判したのです。復職についても、自分で会社側と話し合いました。アルコール依存症をカミングアウトしたうえで復職計画を立て、2ヵ月後 にデイサービスと並行してリハビリ勤務(最初の1週間は半日、1週毎に1時間ずつ勤務時間を増やす)を始め、3ヵ月後に完全復帰しました。と言っても、その後もトントン拍子に進んだわけではありません。

お酒をやめて6ヵ月目が、私が見ていて夫がいちばん辛そうなときでした。仕事やミーティングで人間関係をやっていくことがどうにもならなくなり、一時期まったく動けなくなりました。それでも夕方になると、夫は這うようにしてミーティングに行っていました。9ヵ月目には義父が亡くなり、それにも打撃を受けていました。夫は「親父が死んだら、俺、飲んじゃうかもしれない」と言っていたので、義姉が葬儀の準備の段取りを全部引き受けてくれました。そんなふうに、目の前に続く「回復」という一本の線を、落ちないように慎重に、慎重に、細心の注意を払って、ただひたすら歩き続けた感じでした。

長期間のアルコール漬けで脳の委縮もかなり進んでいて、最初は漢字も忘れている状態でしたが、主治医に「仕事をして、ミーティングに出て、リハビリを続ければ、3年くらいで戻ります」と言われた通り、その頃にはずいぶん回復しました。毎朝、家で自助グループのテキストを2人で読み合わせしたり、家庭内ミーティングを続けたこともよかったと思います。

夫がお酒をやめて、今年で6年になります。今も私は私で、夫は夫で自分の自助グループに通い続けています。2人とも勉強好きなので、プログラムについて家でも勉強したりします。共通の話題ができたので、よく話もするようになりました。以前はお互いに自分の気持ちを抑えるばかりだったので、すごい違いです。何より変わったのは、人間関係です。自助グループを通じて、新しいつながりがどんどん増えていく。大変な思いをしてきたけれど、今の仲間との出会いはかけがえのない私の宝物になっています。気づけてよかった。生きていてよかったです。

私や夫の場合は、自助グループと12ステッププログラムが支えになりました。でも、本当は何でもいいのかもしれません。どんなものでもいいから、お酒に替わる健康的な何かが見つかれば、お酒は必要ではなくなっていくのだと思います。

介入のカギ
●内科医が紹介状を書いてくれたこと
●救急隊員に促されて紹介状を開け、アルコール依存症であるとわかったこと
●親族会議で治療をすすめたこと
●インターネットで専門病院を探したこと

※写真は本文とは関係ありません

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