介入のカギ
私の持病が全快したら、夫が胃がんを発症。退院したら、あっと言う間に問題飲酒になった。
S・K(妻・76歳)
胃の4分の3を切除した後、「阪神淡路大震災」が起きて……
夫が問題飲酒になったのは、45歳を過ぎてからでした。それまでも毎日晩酌をしていましたが、酔ってもおとなしい人だったので、酒に依存しているとは思いませんでした。私は夫とは正反対の性格で、子育てと仕事で忙しかったうえに、何年も持病を患っていたので、今思うと夫にあまり目がいっていなかったこともあると思います。
私たちは、職場結婚しました。夫婦共に公務員で、職場は違いましたが共働きで仕事を続けました。今でこそ共働きは珍しくありませんが、当時は「女は結婚したら家に入る」「男は妻子を養って一人前」という考えが強かった時代。寿退社をしないだけでなく、出産後も子どもたちを預けて働き続けるのは前例のないことで、周囲の風あたりは相当なものでした。共働きを続けたのは、生活のためもありましたが、自分の仕事を続けたかったからです。けれども激務やストレスの影響もあったのか、6、7年で頸肩腕症候群となり、首、肩、腕の激痛としびれで1年8ヵ月完全休業。その後も6年軽減勤務をすることになり、完全復帰できたのは41歳のときでした。
頸肩腕症候群と闘っている間、藁をもすがる思いで様々なことに手を出しました。完全復帰したとき役立つようにと、通信大学で勉強も続けました。夫はそんな私を横目に酒を飲むだけで、励ますのでもなく、反対するのでもなく。後に断酒してから、「俺は家庭と仕事から逃げるために酒を飲んだ」と言っていましたが、本当にその通りで、家庭の中ではまるで透明人間のような存在だったのです。
夫も夫なりにストレスを抱えていたのでしょう。そうして依存が少しずつ進んでいったのでした。おかしいと気づいたのは、夫が45歳で胃がんの手術をした後でした。胃を4分の3も切除したのに、退院時にエレベータで看護師さんと一緒になったとき、「酒は飲んでも大丈夫でしょうか」と聞くのです。「おちょこ1杯くらいならいいですよ」とお墨付きをもらい、家に帰るとすぐ「飲みたい」と言ったのでした。
1杯が2杯になり、3杯になり、あっと言う間に量が増えていきました。おかゆしか食べられない状態でも、「これはカロリーだ」と言って欠かさず飲むのです。胃を切除した後に飲酒の習慣があると、依存が急速に進むと言います。それに拍車をかけたのが、「阪神淡路大震災」でした。
私たちの家は、まさに激震地にありました。幸いなことに、住んでいるマンションは奇跡的に残りましたが、町は完全に崩壊していました。助かった親類が身を寄せてきて、総勢9人の生活が始まったうえ、義母はショック状態から認知症になってしまい、とにかく日々生きていくのが精一杯の状態。自分を励ますために「昼は公務員、夜は避難民」と冗談を言ったりしましたが、本当に大変な日々でした。
町の復興が進む中、何度、夫に「お酒をやめて」と言ったか知りません。けれども階下が酒屋なので、知らないうちにビールも日本酒も箱で届けさせてしまうのです。職場の健康診断でひっかかり、精密検査で肝硬変、白血病と疑われても、「酒だけはやめたくない」と治療にも行かないのです。
やせ衰えていく夫を見ながらも、忙しくてどうにもできない日々が続きました。家のことはすべて私がしていたし、仕事の間にもあちこち掛け回ってみんなの仮設住宅を探し……。生活に少し落ち着きを取り戻すまで、3年かかりました。気づいたら夫は一日7合も飲むようになっていて、こむら返りや下痢が続き仕事も休みがちになりました。そして、ついに鼻や歯茎からも出血するようになって、あるとき「起き上がられへん」と助けを求めてきたのです。今から18年前のことです。
専門病院を拒む夫が、息子の一言で
内科病院へ行くと、医師に「すぐに入院してください」と言われました。白血病の疑いがあり、血小板がないので出血したら失血死する、と。また、入院中はアルコールの離脱症状で暴れる可能性があることを知らされました。これからどうなってしまうんだろうと不安でいっぱいでした。
ところが1ヵ月も経つと、白血球は正常値、γ-GTPも50まで下がりました。ホッとすると同時に、心配になったのは酒のことです。案の定、すっかり元気になった夫は「退院したらビールの中ビン飲むからな」と言い出して、このまま退院したら胃がんで手術したときと同じになると思いました。医師にそのことを伝えると、「ここではこれ以上、治療できない」と言われ、ショックを受けました。けれども「僕は面識はないのですが」と言いつつ、通院でアルコール依存の治療ができる病院を紹介してくれたのです。それが事態を好転させるきっかけになりました。
息子たちにも伝え、退院の日に一緒に夫を説得してくれることになりました。ところが夫は「行かない、酒が飲めなくなる」と頑なに拒むので、堪忍袋の緒が切れて「だったら離婚しましょう」と言ってしまいました。「私にも私の人生があります」と言うと、息子たちが慌てて「ちょっと待って、お母さんにも非があるのでは?」と止めに入りました。これまで息子たちに愚痴は言うまいとがんばってきたのに、それを否定されたようでショックでした。けれども「私にも非はあるかもしれないけど、でも、あなたたちに愚痴を言ったことはない」と言い切る私を見て、息子たちは仕方ないと思ったのか、最後には「わかった、でも離婚しても、2人とも父であり母であることを忘れないでくれ」と言ってくれました。すると、それまで黙って見ていた夫が、突然「行く」と言い出したのです。驚きました。
すぐに退院手続きをして夫をタクシーに乗せ、いったん家まで戻り、タクシーを待たせたまま荷物を家に放り込んで、クリニックへ直行しました。その日は8月16日。お盆なのに休みでなかったのは、本当に幸運でした。何よりよかったのは、診察の前に、ソーシャルワーカーさんが家族の話を聞く時間をとってくれたことです。それまで誰にも言えなかった胸のうちを語ることができ、もし夫が通院しないと言っても私が通院する!と思ったくらい、気に入りました。
診察では、医師が夫に対し「あなたはアルコール依存症で、これ以上、飲んだら死にます」と、はっきり言ってくれました。さらに「専門治療が必要」「抗酒剤を飲む」「夫婦で断酒会に通う」「酒をやめて3年くらいはうつ状態が続く」と4つのポイントについて説明してくれました。アルコール依存症治療について何も知らなかった私は、夫の飲酒問題には治療法があって、そのための専門医までいることに驚きました。それで本当に酒が止まるなら、協力してみようか……。離婚は全快するまでとっておこうと思いました。
医師に言われた通り、夫と2人で断酒会に行ってみました。私の中に一筋の確かな光が差し込んだのは、例会場の扉を開けた瞬間でした。みんなが黙祷をしていのです。ある人が亡くなって、それから初めての例会だったと後で知りました。厳かな気持ちで席に着き、一人ひとりの体験談を聞いていきました。心に染み入る話ばかりで、これはかつて自分が持病で苦しんでいた頃に学んだ集団カウンセリング療法と同じだと気づきました。ここには確かなものがある、私はここに来たいと感じたのです。
夫とやり直してみよう
渋々ながら断酒会に入会した夫は、1年は例会に出ても寝てばかりでした。それでも断酒は続き、無事定年を迎え、断酒2年目には抗酒剤の処方も終わりました。そして3年目、主治医が言っていたように、うつがひどくなりました。前もって予告してくれていたので、これも回復してきている証拠と受けとめることができましたが、目の前で「死にたい」と言われるのはやはりつらかったです。
そうして少しずつですが夫は元気になり、5年目を迎えた頃です。夫が全快したら別れようと思っていたけれど、もう少しがんばってみようかと思いました。いろいろな困難がありながらも夫婦の絆を深めていく先輩の家族を見て、もしかしたら自分もそうなれるかもしれないと希望を見出すようになっていたのです。
夫とは性格やペースが違いすぎて、幸せを一緒に分かち合うことができない関係だったので、それが変わるとは信じられない気持ちもありました。けれども手始めに、自分だけでもカウンセリングを受けてみようと思いました。最初の日、1時間ほど一人であれこれ喋ったことを思い出します。カウンセラーはなぜか何も言わないので、喋るしかなかったのです。何を言っても答えや提案が返ってこないことに耐えかねて、最後には「だから、夫とやり直そうと思います」と話していました。そこから私の新しい挑戦が始まりました。
いちばん大変だったのは、自分の意識を変えていくことでした。というのも、長い間夫のことを軽蔑し、心の中で切り離してきたので、やり直そうとしても夫のいいところを1つも見つけられず、それが邪魔をして自分の言動を変えられないのです。もちろん夫に対しては断酒していることを誉めちぎっていましたが、それはいいところというより、断酒を続けてほしかったからです。そこで誰かが間に入れば違うのではないかと思い、夫に頼み込んで夫婦カウンセリングを始めてみました。ところがその矢先に、まだ60歳半ばの夫に物忘れの症状が出ていることに気づいたのです。
物忘れ外来に行くと、アルコール性の認知症だと言われました。やっと断酒が安定して、これからだというときに、なぜこんなことになるのか。最初はその事実を受け入れられずにいました。けれどもだんだんと症状が進み、ついに夫がボランティアをしていた老人施設の職員から「逆に手がかかるので介護認定をしてください」と言われてしまったのです。その方向で動かざるを得なくなりました。
遠くて近い関係
夫はその後、要介護1の認定を受け、デイサービスに通うようになりました。最初は「僕が行くところじゃない」と言っていましたが、次第に慣れ、今では日曜日以外毎日通っています。私はと言えば、やり切れない思いをカウンセリングの場で話すようになりました。実はそれが、思いの他とてもよくて、私の生き直しの始まりになりました。
話は現在から過去に進み、自分のことを初めて生い立ちから振り返ることになりました。心休まらない家庭で育ち、親の愛情に飢えていたこと。親を憎み、心の中で切り離してきたけれど、それが私自身を蝕んでいったこと。大人になってからも、人当たりのよさに隠れていつも心に空洞を抱えていたこと……。60歳を過ぎて今さらそんなことをと思う人が、いるかもしれません。けれども自分がこれまで抱えてきた生きづらさの正体が見えてきたら、本当にすごく楽になったのです。カウンセラーは、「今からでも遅くないですよ。誰かと楽しい時間を過ごしたら、『今日は○○さんに愛情をもらった』と自分に言い聞かせてください」と言ってくれました。
私は夫に対して、心の空洞を埋めるほどの何かを求めていたのかもしれないと思います。けれどもそれは、夫が私に与えてくれるものとは違っていたのです。断酒10何年目かのとき、夫に「これまで再飲酒しなかったのはどうして?」とたずねたことがあります。「俺が飲んだらおまえは出て行くやろ」と答えるのを聞いて、あぁ、私が言った離婚という言葉が効いたんだと思ったことを覚えています。初めて私の気持ちが夫に通じた感覚を味わったのです。いろいろあった夫婦だけれど、夫なりに私を必要としてくれているし、私たちが断酒でつながっていることは間違いない。ならばこれからも、断酒を通じてこの人と付き合っていこう、いつしかそう思えるようになっていました。
今、夫はときどき私のことを忘れます。私は、これもアルコール依存症の延長で起こる出来事なんだと受け入れることができています。今も私は夫と断酒会に行くし、ときどき映画にも行きます。夫は今見たばかりのあらすじを忘れてしまいますが、俺は重症だと言いながら「その瞬間の感動が大事なんや」と笑います。夫がデイケアに行っている間、私は女性団体でボランティアをしたり、趣味の俳句を楽しんだりしています。夫にも、残っている力を存分に発揮してもらいたいと思っています。そうしていつか、夫が私のことを完全に忘れても、私が覚えていればいい。そのときまで、夫と一緒に「一日断酒」を大切にしながら、お互いにやりたいことをやっていけたらいいと思っています。
- 介入のカギ
- ●内科医が専門医を紹介してくれた
- ●私と息子の会話
- ●内科病院を退院したその足で専門クリニックへ行き、医師の説明を受けたこと
※写真は本文とは関係ありません