介入のカギ

板前の仕事をやめて昼間から飲む夫。離婚をしよう何度も思ったけれど。

A・T(妻)

私にはもう無理だ!

私の中で何かの糸がプチンと切れたのは、10年ほど前のことです。その前の晩、夫は知り合いの通夜に出かけたきり戻らず、朝になって帰ってきました。背広はよれよれで酒臭く、朝まで飲んでいたのは一目瞭然。それを見たら、突然「もう無理だ」と思ったのです。

夫は以前、うつで何回か心療内科にかかっていたのですが、私が付き添いで行ったとき、アルコールの問題を指摘されていました。医師に「家族相談というのがあるので奥様だけでも行ってみては?」と言われていましたが、夫は「俺はアルコール依存症なんかじゃない。だからおまえがそんなところへ行く必要はない」と怒ったので、無理だとあきらめていました。けれどもその日、私は「家族相談へ行く」と譲りませんでした。「行くんなら離婚だ」と言われましたが、自分でも不思議なほど冷静に「そうですか」という言葉が出てきて、もうこの家を出よう、離婚しようと心に決めたのです。そしてその日のうちに、荷物をまとめて実家に帰ったのでした。

夫の飲酒問題については、結婚当初は酒乱の問題だと思っていました。ビールを飲んでいるうちはいいけれど、酔いが深まり焼酎や日本酒を飲み始めると、私に絡みだすのです。普段はおとなしく口数の少ない人なのに、声を荒げ、気に入らないと空き缶を壁に向かって投げつけたりする。気難しいところがあるので、私はだんだんと夫の顔色をうかがい怒らせないようにと気遣うようになりました。ただの酒乱ではないと気づいたのは、飲酒運転をするようになってからです。夜中に警察から連絡が来たこともあります。30代前半からは、朝になると体調が悪く仕事を遅刻したり、痛風発作が出たり、下痢が続いて痔をこじらせたりと、健康にも問題が出てきました。

飲みすぎるのがいけないのだと思い、酒を隠したり薄めたりと、いろんな方法を試しました。のちに家族教室でイネイブリング※のことを知り、まさに自分がしてきたことはこれだとわかりました。酒を隠しても、「どうせ隠しているんだろ。早く出せ」とすごまれると気持ち的に負けて出してしまいます。そうなればいくら隠しても捨てても、元の木阿弥になってしまうのです。
※アルコール依存症者が飲み続けることを可能にする(周囲の人の)行為のこと
関連リンク:http://alcoholic-navi.jp/about/therapy/ineibuling/

私の中で何かが切れたのは、経済的な問題が重なったこともありました。夫は板前で一人の師匠について店を移りながら修行していたのですが、その師匠が亡くなってから、思うように店を選べず、気に入らないとすぐにやめてしまうようになったのです。マンションのローンもあるのに、働かずに1日中飲んでは寝てを繰り返す夫。家のことは何もしないし、私だけが必死になって昼も夜も働いている状態で、これ以上、一人で背負うのはもう無理だと思いました。

γ-GTPが4000もあったの!?

私が実家に帰った翌日から、夫から謝罪の電話がかかるようになりました。出ないようにしていましたが、「とにかく話だけでも」「仕事を始めた」「ダメなら俺がいるときに犬を見に来てくれるだけでもいい」としつこく伝言で言われ、夫がいないとき犬に会いに行きがてら荷物を持って帰るようになりました。そのうちに「一緒にご飯を食べたい。ご馳走する」と言われ話を聞きましたが、夫に「やり直したい」と言われても、心は動きませんでした。

8ヵ月後に家に戻ったのは、夫が仕事を続けていてそれなりにがんばりが見えたことと、夫の両親と私の両親との話し合いもあって、「昼間から飲まない」「休肝日を作る」「予告なく仕事を辞めない」という約束事ができたからです。今思えば私も親も、依存症という病気のやっかいさをわかっていなかったのでした。

1年も経たないうちに、状況はみるみる悪化しました。家で飲まない代わりに、仕事帰りに飲んで泥酔して帰ってくる日々になり、結局出勤できなくなって、そのまま店をやめてしまい、昼間から飲むようになったのです。

いちばん苦しかったのは、私のパートの給料だけではローンの支払いと生活費をまかなえなかったことです。かけもちでアルバイトをしても、全然足りない。くたくたになって家に帰り、飲んでいる夫を見ても喧嘩する気力すらない状態でした。ところが、思い悩んでいる矢先、夫が自分から「入院させてほしい」と言ってきたのです。まさかこんな展開があるとは思ってもみませんでした。

すぐに専門病院に連絡すると、年末なので入院はできないと言われ、年明けの診察になりました。1週間がすごく長く感じられました。待ちに待った診察日、夫はアルコール依存症と診断され、即入院。γ-GTPが4000もあると聞き、ぞっとしました。

その日、一人で家に帰ると家の中がすごく広く感じ、涙があふれてきました。ホッとしたのもあるし、なぜこんなふうになって入院するまで飲み続けたのかというやるせない思いもありました。いろんな思いが入り混じり、わんわん泣きました。今から8年前のことです。

依存症病棟って、他の入院生活とは違うんだ

夫が入院している間、私は今後のことを考え、お金の計算ばかりをしていたように思います。ローンの支払いをするために必死で働きましたが、貯金は目減りする一方。結局、入院費だけは夫が両親に借りる形にして何とか乗り切りました。

入院に関しては、規則正しい生活をすることが目的であること、家族は毎日面会に来なくてもよく、洗濯ものも持ち帰らず本人に任せること、ただし家族はよほど重要な用事がない限り病院で開催する家族会に参加した方がいいことなどを医師から聞かされました。プログラムもいろいろなものがあって、依存症病棟は普通の入院とはずいぶん違うんだなと思ったことを覚えています。

家族会では、依存症について学べただけでなく、誰にも言えなかったつらさを話すことができ、とても助けになりました。それまでは「離婚もできたのに自分で戻ることを決めたのだから、文句は言えない」という考えがあって、それが私自身を縛っていたのです。

夫のことは病院に任せ、面会は食べ物の差し入れや洋服を頼まれたときだけにしました。酒をやめると甘いものが欲しくなるようで、チョコパイやプリンをよく持って行きました。夫は人付き合いが苦手な人ですが、同じ病気を持っている入院患者に対しては心を開けたようで、「誰々と一緒にトランプや将棋をした」「ご飯が美味しい」と楽しそうにしていてホッとしました。けれども、それもつかの間。2ヵ月目に入ると一人部屋から四人部屋に移り、そのストレスもあってか、気難しさが出て「退院したい」「こんなところに居ても仕方がない」と病院の悪口を言うようになり、やっぱり……とがっくりしました。

それでも不思議と夜のプログラムで参加した断酒会は気に入ったようで、「俺は退院したら断酒会に入る」と言っていたので、それが希望になりました。ところが、夫は3ヵ月まであと2日というとき、強制退院となりました。自己判断でプログラムに参加しなくなったことが原因でした。

断酒会一筋になっていく夫

このままで大丈夫なのか? 何度もそう思いました。特に退院したばかりの頃は、すぐに働き出さず自宅療養と通院だけの生活が1ヵ月あり、その間、よく入院仲間と連絡を取りあっていたので、一緒に飲んでしまうのではないかと不安でした。飲んではいなかったようですが、夫と2人で外でご飯を食べたとき、夫が当たり前のようにノンアルコールビールを頼もうとするのを見て、とても嫌な気持ちになりました。

家族会でそのことを話すと、「ノンアルコールでも同じような味がするわけで、飲酒欲求を呼び起こすから飲まない方がいい」とのこと。その言葉に勇気をもらい、次に食事する機会があったとき「ノンアルコールビールを頼むと不安になるから、頼むなら行かない」と伝えることができました。

夫も夫なりに、どうやって断酒を続けるか考えたようです。夫はこうと決めたら一筋になるところがあるので、「俺は退院したら断酒会に入る」という言葉の通り、断酒会に入会。当初、私は断酒会は本人のためだけのものだと思っていたし、家族会で自分の気持ちを話せば十分だと考えていましたが、夫に「断酒が続いている人はみんな夫婦で来ているから、一緒に参加してほしい」と言われ、私も参加するようになりました。とても温かく迎え入れてくれたことを覚えています。いろいろアドバイスを受けながら、少しずつ断酒を中心にした家庭生活ができていきました。

退院後1ヵ月で働き出した夫は、週1回の地元の断酒会だけでなく他の例会場へも行った方がいいとの先輩の勧めに従い、毎日のように例会に参加。仕事は板前ではなく、郵便配達のアルバイトです。医師に「飲んでいたときと同じ環境に戻らない方がいい」と言われていたこともあり、アルバイト募集のチラシを見て決めたのです。

毎日、地図とにらめっこをして、不安な気持ちと闘いながら仕事をしているのがわかりました。それでもアルバイトだから、5時には仕事が終わります。例会へ行けば仲間と会えるし、配達区域の中に断酒会の先輩の家があったことが励みになっていたようです。断酒会の行事や研修会にも積極的に参加し、いつの間にか驚くほど断酒会一筋になっていました。私としても、生活は多少苦しくてもその方が安心できました。

夫婦であっても、お互いに自立すること

生活のペースができて、私も一息つけるようになったのは断酒3年目くらいからです。それまでは、何か気に入らないことがあると1週間も10日もまったく口をきかず、食事もとらないということが何度もありました。あとで思うと痛風発作の前後が多かったので、痛みもあったのかもしれませんが、何も言わないのでわからないのです。「言ってくれれば対応できるのに」と伝えても答えてくれず、私も飲んでいた頃の怖い記憶があるので、体格のいい夫をこれ以上怒らせたくないという思いからそれ以上何も言えず、いつも我慢していました。それでも断酒会では、「こうだった、ああだった、こんな気持ち」と話すことができます。お互い面と向かっては言えないことを断酒会を通して話すことで、コミュニケーションがとれたからやってこられたのだと思います。

コミュニケーションと言えば、断酒が落ち着いてくると、夫は私にいろいろなプレゼントをくれるようになりました。私の誕生日も覚えていない人だったのに、驚きました。贈り物をされると、やっぱり嬉しい。といっても数回で終わってしまったのですが……。でも、もともとそういうタイプの人ではないし、今はまあいいや、と思っています。もし誕生日プレゼントが欲しければ、「欲しい」と私が言えばいいのだとわかったからです。

長い間、夫の行動ばかりに気をとられ、いつも悪いのは夫だと思ってきたけれど、断酒会の中でいろいろなことを学ぶうち、私にも悪いところがあったのだと思えるようになっていました。お互いに自立しなきゃ、と。大変だと思っても自分の気持ちや考えを相手に伝えたり、面倒なことになるかもしれないと思っても、「イエス」「ノー」をはっきりと伝えることもその一つ。そして相手が何かしてくれたら、「ありがとう」と言う。毎日一緒に暮らしているからこそ、こうした基本的なことを必要なんだと改めて思います。

夫は郵便配達のアルバイトを始めて6年目に、試験を受けて郵便局の正社員になりました。新入社員扱いなので収入は減りましたが、精神的には安定していくのがわかり、よかったなと思いました。私も自分の生活を楽しめるようになり、昨年は結婚以来初めて友人と旅をしました。たくさんおしゃべりをして、美味しいものを食べて、本当に楽しかったです。結婚して21年。いろいろなことがありましたが、あのつらかった日々が、依存症という病気がもたらしたものだとわかり、お互いに人生をやり直すことができてよかった――。だからこそ、一人でも多くの人にアルコール依存症という病気があることを知ってもらい、今苦しんでいる人が治療につながることを願っています。

介入のカギ
●うつでかかった精神科医が家族相談を教えてくれたこと
●「入院したい」と言われたときすぐ専門病院に連絡したこと

※写真は本文とは関係ありません

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