介入のカギ
「夫でも息子でもなく、娘がアルコール依存症」という立場を受け入れられるようになるまで。
A(母)
はつらつとして元気だった娘が……
娘が就職したのは15年ほど前のことです。飲み会の多い職場で、よく飲んで帰ってきました。当時はまさかそれが酒の問題に発展するとは思っていなかったので、家の棚に入れてあるウイスキーの量が目減りしているのに気づいても、何でだろう? あの子が飲んだのかしら?くらいにしか考えていませんでした。
娘はよく気遣いをする子です。サービス精神旺盛で場を盛り上げるタイプなので、飲み会でも重宝がられたのでしょう。けれども25歳になる頃には、酔いつぶれて帰宅し、朝起きてきても足元がふらつく状態になっていました。食べないで飲むため体重も減り、職場で倒れたり。病院へ連れて行くと、その度に「アルコール性肝炎」と言われるのです。
酒に関し私がうるさくなると、娘は隠れ酒をするようになりました。私が酒を発見して捨てる、娘がまた買ってくるといういたちごっこの繰り返しで、家のあらゆるところから酒が出てくるのです。スポーツが得意ではつらつとしていたあの子は、どこに行ってしまったのか。「なぜ飲むの?」「なんでこんな姿になってしまったの?」と娘を責めました。けれどもどんなに争っても、娘は飲むことをやめなかったのです。
まだ20代なのに、入院しても治らないの?
このままでは娘も私もどうにかなってしまうと考え、思い切って知人に相談すると「ここに行ってみては?」と心療内科クリニックを教えてくれました。予約を入れるため、初めて連絡したときのことを今も覚えています。「よくかけてきてくださいましたね」と温かく対応してくれた受付の人は、ちょっと話しただけでも「こういう状態なんですね」とわかってくれました。どうしてこんなにわかってくれるのだろうと驚くと同時に、ここなら何とかなるのかもしれないと救われた気持ちになりました。
ところがクリニックへ行き、娘が点滴を受けているとき、看護師に「お母さん、この子を精神科病院に入院させることはできますか?」と言われました。酒の問題なのになぜ精神病院なの?とショックを受けました。
それからすぐに1回目の入院となるのですが、必死だったのでどう段取りをしたのか覚えていません。娘は職場で倒れ内科に入院し、退院したその足で他県の病院へ行ったのです。治るのであればもうどこでもいいという気持ちでした。
どんなところかわからないので、病院に着くまでは不安でした。ところがまるでホテルのようにきれいな病院で、驚きました。さらに驚いたのは、夫と2人で先生の話を聞いたとき、「ここでは治りませんよ」と言われたことです。え?と思いました。
今になれば、「アルコール依存症は『治る』のではなく『回復』することができる病で、退院後も自助グループなど仲間の支えが必要」という意味だったとわかりますが、当時ははるばるこんな遠くまで来たのに、なんてことを言う先生だろうと憤慨し、落胆しました。
娘にとってはいい入院生活だったようですが、外泊の度に飲んで帰ってくる姿を見て、やっぱり入院しても無理なんだと思いました。結局、退院後数ヵ月で元のような状態になり、仕事も退職。クリニックの主治医に相談して、他の病院を紹介してもらいました。そこは内観療法をしているところで、そういうプログラムがあれば今度こそうまくいくのでは?とすがる思いでした。
2回目のときも、娘はボロボロの状態だったので、入院を勧めると「連れて行って」と言いました。娘を置いて病院を出たときは、正直、解放されたと思いました。ひどい親ですが「これであの子のあんな姿を見なくてもすむ」と考え、早く家に帰りたいと思ったのです。
ここでダメだったら、もう後がないかもしれない
ところが娘はその入院でもあまり変化が見られず、退院後1ヵ月も経たないうちに元の状態に戻ってしまいました。クリニックへは通院していましたが、「つらいので点滴を受けてくる」と言っては内科に行き、帰りに酒を買ってくるという状況。それを私が探し出し、娘の目の前に突きつけて怒っても、娘は「違う、私じゃない」と開き直るのです。1年ほどの間に肝障害で何度も内科病院に入院し、ついには幻覚まで出るようになってしまいました。
わらをもすがる思いで2回目に入院した病院に連絡すると、「飲んでいる状態では受けられません」と断わられてしまいました。クリニックの主治医に「もうどうにもなりません」と相談すると、主治医は3つ目の病院と連絡を取って、翌日入院できる段取りを整えてくれました。「でも、そこでも飲んでいると入院させてもらえないかもしれない」と言われたので、その場で夫に電話をして「家中の酒を探して捨てて!」と伝えました。
夫は娘の部屋へ行き、静かな口調で「明日、病院へ行こう」と伝え、「今ある酒を全部出しなさい」と言ったそうです。普段、部屋まで来ることのない父親が来て、怒るのではなく語りかけてきたので、娘も驚いたのでしょう。飲んでいた酒パックを渡しただけでなく、夫に「他に隠しているものはないね」と言われると素直に差し出したということでした。
後に娘は「お父さんが黙々と酒をゴミ袋に入れていくのを見たら、逆らう気になれなかった。もし怒鳴ったり殴られたりしていたら、穏やかな気持ちでは病院に行けなかっただろう」と教えてくれました。病院へ向かう長い道のり、車の中で、娘は「今度はどこの病院に入院するの?」とだけ言いました。重苦しい沈黙が続き、逃げ出したい気持ちでしたが、無事入院させることができて本当にホッとしました。
私の中に断酒会への偏見があった
もしかして今回はいけるのだろうかと思い始めたのは、娘が電話で断酒会の話をするようになってからです。病院では100円を出すと例会場まで送迎してくれること、例会での様子や車中で入院仲間とおしゃべりしたこと……。外泊の際、看護師から様子を知らせる手紙が届き、娘を送り出すときに家での様子を書くシステムだったことも、家族としては支えになりました。
そうしていざ退院という時期には、娘は断酒会に通うことを決めていました。断酒会の人に「これからどうすればいいんだろう?」と相談したら、「何言っているの。帰る場所は断酒会しかないでしょう」と言われたそうです。といっても私自身は、まだ断酒会がどういうものかまったくわかっていなかったのですが。
私が初めて例会に参加したのは、退院する娘を迎えに行ったときでした。先生に「お父さんとお母さんも院内例会に出てください」と言われたのです。そして出てみて、度肝を抜かれました。参加している人は、20代の娘よりはるかに年上の男性ばかり。しかも女性は2人しかいなかったのです。
正直、こんなところに行って意味があるのか?と考えました。私の中にはまだ依存症に対する偏見が渦巻いていたのです。アル中と言えば、路上で飲んでだらしなく寝ているイメージで、きっと断酒会に出る人たちは、そういう人なんだろう、と。娘も確かに似たような状態だったにも関わらず、自分の娘がアル中と同じだとは思いたくないという気持ちがあったのです。
けれども娘にとっては大切な場のようで、退院後は自分が入会する断酒会を探すためにあちこちの例会場へ行くようになりました。その姿を見ていたら、親としても協力せねばと思い、娘が入会を決めた遠方の断酒会に通いやすいようアパートを借りてあげました。
「この断酒会は、家族が一緒じゃないと入会できないんだって」と娘に言われたのは、それからしばらく経ってからです。気落ちしている娘の声を聞いて「うん、行くよ」と答えたものの、葛藤しました。本当は「断酒会」という言葉を聞くのも複雑なのに、私まで行かなければならないとは……。しかも行くとなったら車で1時間近くかかるし、その日は仕事を早く切り上げて夫の夕食も準備してから出ないと通えない。けれどもそれが娘のために必要であれば、行ってみよう。そうして週1回の私の断酒会通いが始まりました。
娘の病気を正しく理解できてよかった
おっかなびっくり断酒会へ行くと、皆さん「お母さん、よく来てくださいましたね!」と温かく迎えてくれました。何を話したか覚えていませんが、ここには自分と同じようなことで悩んでいる人がいて、他の誰にも話せなかったことが話せる場なんだと感じたことはしっかり覚えています。それからも「よく来てくれましたね」と迎えられたことや、「依存症は病気なんですよ。認めてあげないと娘さんがかわいそうですよ」と言われたことが、私の原動力となっていきました。
例会では、娘の話も聞きます。最初の頃は、「親にこうされた」「あのときはこうだった」など、娘の心の叫びを聞いて葛藤しました。つい私も「そんなつもりはなかった」「あのときはそうじゃなかった」と娘に対し反論するような話をしてしまい、悔しくて帰りの車中で泣いたこともあります。けれどもそうしてクールダウンすると、「あの子の言う通りなのかもしれない」と思え、家に着く頃には落ち着いているのでした。
また、娘が1人暮らしをしてしばらくは、電話での口調がおかしいと「もしかして飲んでる?」と聞いてしまい、「飲んでない!睡眠導入剤の影響だよ!」と怒られたことが何度かありました。確かに断酒会で会う娘は、いつも飲んでいないと感じられました。だからつい疑ってしまうことがあっても、信じてみようと思えるようになって、気持ちの切り替えがつきました。
娘が一回り大きくなったように感じたのは、断酒2年目の頃でした。断酒会の女性グループ「アメシスト」の大会が九州県内で開かれことがきっかけとなりました。娘のいる断酒会は女性メンバーが1人きりだったので、全国にはたくさんの女性の仲間がいると知り大感激したようでした。「いっぱい泣いてきたよ。私よりずっとすごい体験をしている人がたくさんいて、それでもがんばっている人がたくさんいた」と興奮した様子で話してくれ、それ以来あちこちで開催される女性酒害者の研修会に積極的に参加するようになりました。
その後、娘のいる断酒会でも、少しずつではありますが女性メンバーが増えていきました。家族も参加しているので、私も同じ娘を持つ親として分かち合えるのがうれしいです。夫でも息子でもなく、娘が依存症という立場での分かち合いはまた違った深さがあるのです。娘が依存症になったことを恥じているわけではないし、逆に女性だって依存症になるのだと世間に知って欲しいと思うくらいですが、まだまだ世の中には偏見があるので、そうした複雑な気持ちを話すだけでも楽になります。
断酒会へ行くと、「今日も来てよかった」と思います。他の人の話を聞きながら「あの子もあんなふうに考えていたのだろうか」と考えたり、「どこも同じなんだな」と思ったり。自分の子どもが依存症になったことで、「どこで育て方を間違えたのか」「なぜ私の娘がこんなことになるのか」と思ったこともありましたが、どんなに考えても納得のいく結論は出なかったし、断酒会に通う中で、過去は帰られないのだから今からのことを考えようと思えるようになりました。
娘は今年で断酒10年になります。飲んでいた頃の状態を忘れることはできませんが、「あの頃はああだったよね」と笑って話ができるし、お互いやさしくなれているし、今がよければそれでよし!だと思っています。私は楽天的なのかもしれません。それは娘も同じで、やっぱり親子なので似ているところがあるのでしょう。
これからは自分の健康に気をつけながら、1年でも多く娘の成長を見守っていきたいと思っています。そして穏やかに年をとっていくことが、今の私の目標です。
- 介入のカギ
- ●知人に相談してクリニックを紹介された
- ●娘の体調が悪いときに入院を勧めた
- ●3回目の入院の前、父親が穏やかに入院を勧め黙々と酒を回収した
※写真は本文とは関係ありません