介入のカギ

酒をやめない父を恨んでいたけれど、今は生きていてくれて本当によかったと思う。

H(娘・37歳)

父はいないも同然の存在

父が断酒して、1年が経ちます。この2年ほどの間、私の中で父や依存症に対する印象は大きく変わりました。それこそ、天地がひっくり返るほどの変化です。

私は看護士師をしています。精神科ではありませんが、職業柄アルコール依存症の人に出会うことがあります。正直、以前は依存症の人は酒をやめることができないと思っていたし、治療に成功した人に会ったこともありませんでした。だから父も酒をやめることなど絶対にできないと思っていました。知らないということや偏見というのは、怖いことだなと改めて思います。

父はもともと酒をよく飲む人で、家ではいつも酔っ払って寝ていました。小学生のときの運動会でも、家族席で大の字になって寝ていて、だったら来なければいいのにと思ったことを覚えています。父と一緒に遊んだ記憶はなく、家庭の中でも存在感がない感じでした。

けれども子どもの頃は、「父親とはそういうもの」ととらえていたので、それが当たり前だと思っていました。うちは何かおかしいぞと気づいたのは、看護科のある高校に進学し、入寮して、親元を離れてからです。休日に家に帰るとき、他の人はみな家族が車で迎えにくるのに、私は誰も迎えに来ないので公共の交通機関で帰るのです。理由は明らかで、父が飲んでいるから。父はタクシードライバーなので運転は得意なのに、仕事以外の時間はいつも酔っ払っていたので家族のために運転することはあまりなかったのです。

家に帰っても父は寝ているだけ。母は仕事や他のきょうだいのことで忙しく、私は放ったらかされているような気がしました。そもそも私がその高校に進学したのは、中学の三者面談のときに母が「何か資格が取れる方向に進んだほうがいい」と強く勧めたからです。後でわかったことですが、当時、母は私を父のいる環境から離したかったそうです。母にすれば家のことは気にせず自分の将来を築いていってほしいとの願いがあり、実際そうなって今は感謝していますが、当時はそんなことはわからず不満を感じたこともありました。

他の家との違いがわかるようになると、父の存在はますますうっとうしくなりました。仕事を終えるとどこかで一杯飲んでくるのでしょう、ほろ酔いで帰宅し、「あれをもって来い」「これをしろ」といばり散らします。そのくらい自分ですればいいのにと思い、「家族は家来か?」と父を責めると、黙ってしまうので、しまいには父を見下すようになっていきました。

「あなたは典型的なACです」

看護学校では、アルコール依存症やAC(アダルトチャイルド)ついて学ぶ機会がありました。これはうちのことでは?と思いましたが、まさか「うちもそうです」「何か私もACのようです」とは言えず、心の奥にしまってしまいました。私は昔からそうしていろいろなことを抱え込む傾向がありました。

私は奨学金制度を利用していたので、看護学校を卒業してから他県に就職し、後に実家に戻って再就職しました。外来業務でしたが、正看護師は一番若い私だけ。資格があるとというだけで主任扱いになり、分からないことだらけなのにどう仕事を配分したらいいかわからず、うつ状態になって適応障害と診断されてしまいました。

2年ほどは1人で外出もできない状態で、一時は看護師もあきらめました。幸いにも他の仕事をしようと職業訓練を受けているときに、同じような境遇の人と出会い、お互いに励ましあうことで回復。再就職と同時に家を出て、1人暮らしを始めました。

その間、父の飲酒問題は悪化し、私は「こんな人はいらない」と思うようになっていました。母は断酒会に通い始めましたが、「本人が行かないのに無駄なことをしてる」と冷めた目で見ていたのです。

それでも専門病院を調べ、一度母と家族教室に行ったことがあります。カンファレンスで「ここでは何でも言っていいんですよ」と言われ、父のことを話しだしたら涙が止まらなくなりました。スタッフに「あなたは典型的なACだ」と告げられ、きっとその通りなんだと思いました。

依存症から回復した人たちがこんなにいるなんて!

私が心情的に父に振り回されるようになったのは、父が専門病院へ行くことを決めてからでした。自分の意志がないと入院できないところなので、最初は驚きました。けれども同時に、かつて看護学校で依存症の講義を受けたときに、専門医が「私の経験では、『酒はもうこりごりです』『やめます』という人ほど、やめません」と言ったことを思い出しました。もしかして父も……。そんな疑念を証明するかのように、父は退院後に再飲酒し、やっぱり!と怒りが沸いてきました。

実家に戻って母と顔を合わすたびに、「もしお父さんが救急車のお世話になることがあっても、ちょっと手遅れになるくらいで要請して。もし助かっても、かかりつけの病院を知らせて。私のいる病院には絶対に来ないで」と伝えました。体が回復すればどうせまた飲むのだから、そのまま死んでくれた方がいいと思ったのです。

それでも3度目の入院を機に父も断酒会につながり、母から「お父さんと2人で断酒会の全国大会に行くことにした」と知らされたときは、少しは協力しなければと思いました。けれどもいざ全国大会に行くという直前、父はまた飲んだのです。しかも転んで腰痛圧迫骨折となり、旅行どころではなくなりました。

航空券もホテルもすでに取っていたので、父の代わりに私が母と一緒に行くことになりました。気が進まなかったので、現地では別行動をするつもりでいたのですが、思わぬ展開となりました。

まず、待ち合わせ場所の地元の空港で、断酒会の人たちに挨拶をしたとき、何て普通の人なんだろう!と驚きました。それどころかとても紳士的で、この人たちは本当に依存症?と思いました。また家族の人たちにもびっくりしました。私がそれまで人に話すのをタブーとしてきたことを、「うちはこうだったわ」「私も娘にこう言われたわよ」と、あっけらかんと、しかも笑顔で語ってくれたのです。目が覚めるような気持ちでした。

全国大会では母ともたくさん話し、いろいろな人の体験談を聞きました。父より壮絶な体験もあったし、専門医も講演も大変面白く、とても勉強になりました。こんな世界にいたら、父も断酒できるのか?いやできるに違いない。できる。そう確信できる空気がそこにはありました。私の考えがまさに180度変わった瞬間でした。

帰宅後さっそく父に報告し、「来年の全国大会は一緒に行こう!」と誘いました。けれども「わかった」と言った口が渇かないうちに、父はまた飲んだのです。怒りが沸騰しました。

父の最後の入院は、それからしばらくしてからでした。休日に叔母が尋ねてきて、泥酔している父に対し「家族がどれだけ我慢しているかわかっているのか」と責めたのです。そんな叔母を見るのは初めてでした。私も耐え切れなくなって、泣きながら「早く死ねばいい」と言ってしまいました。父が涙目で見ていたのを覚えています。「わかった、入院する」と力なく答え、翌日入院となりました。

父の中で何かが変わったと感じられたのは、入院中に会ったときでした。私は全国大会以来、母と断酒会に参加するようになっていましたが、再飲酒した父の顔は見たくなかったので見舞いに行くつもりはありませんでした。けれども母に断酒会総会に誘われたとき、直前になって「ついでにお父さんの病院へ行くよ」と言われ、しぶしぶついていったのです。

着替えなどの荷物を受け取るだけだったので、父とは駐車場で待ち合わせました。そのときの父の姿が、今までとはちょっと違うと感じました。見たこともないような満面の笑顔なのです。もしかして今回はいけるのでは?と思いました。

何がどう作用したのかわかりません。退院後、父は1断酒会に定期的に参加するようになり、気づいたら断酒が続いていました。

依存症のことをもっと知ってほしい

実家に帰って飲んでいない父と会うのは、とても新鮮でした。少しずつ話をするようになり、私の中に残っていた父へのわだかまりも解けていくのを感じました。特に父が昨年の全国大会に参加してからは、自然な感じになってきて、新しい父と出会っている感じです。お父さんはこんなことで笑うんだ、こういうところで頑固なんだ、こうすると喜ぶんだ、と発見の連続なのです。

父のことを知れば知るほど、父はずっとこんなふうに家族と関わりたかったのだろうと感じます。うちは4人姉妹で、家族の中で男性は父だけです。女性に囲まれ、父はどんなふうに家族に接したらいいかわからないまま酒を飲んでいたのではないか。私にとって父は長い間いないも同然の存在だったけれど、本当はもっと甘えたり頼んだりしてもよかったのかもしれません。

父がもうちょっと早く断酒していたら、いろいろなことが変わっていただろうな、と思います。今、父はかつて体験できなかった子どもとの関わりを、孫を通してやるチャンスをもらっています。たくさん体験してほしいと思うと同時に、アルコール依存症についての正しい知識や断酒会のことをもっと多くの人に知ってもらいたいと切に思います。看護師の私ですら、依存症が回復する病気だと知りませんでした。医療関係者でも、まだ知らない人がたくさんいると思います。そうした状況が少しでも変わるよう、これからは自分にできることをしていきたいと思っています。

介入のカギ
●母が断酒会につながったこと
●全国大会に出席し、父への見方が変わり娘が回復を応援したこと
●それまでやさしかった叔母が入院を迫ったこと

※写真は本文とは関係ありません

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